1907年、愛知県知多郡有松町(現・名古屋市)で誕生した[3]。先進的な父の方針で、横浜の捜真女学校に入学後、家庭の事情で名古屋の金城女学校に転校した後、愛知県立第一高等女学校専攻科(現・愛知県立明和高等学校)を卒業した[4]。
1927年(昭和2年)、丸山薫と結婚した[3]。丸山薫が詩人としてまだ芽が出ていなかったため、働き口を捜して知人のもとを訪れたところ、三四子の働き口ならあるとして、東京マネキン倶楽部を紹介され、マネキンとなった[3]。マネキンとしての名は薫の命名で、薫自身の名にちなんで「梅本かほる[6]」を名乗った[7]。当時、貧乏文士の妻や、夫が左翼運動に関連して生活が苦しい新劇女優などがマネキンになることが多く、三四子もまたマネキンの収入で薫を支えた[8][9]。商品知識を得るために誠心誠意努めたことで、仕事の無い日はなく、名指しでの仕事も受けるようになった[10]。
東京マネキン倶楽部の会長の駒井玲子が辞任し、1932年(昭和7年)秋にその責任者を引き継いだ後は[11]、三四子の巧みな経営により、東京マネキン倶楽部は業界トップを維持した[3]。1944年(昭和19年)に倶楽部が解散した後、1949年(昭和24年)から豊橋家庭裁判所で、33年間にわたって調停委員をつとめた[4]。
1974年(昭和49年)に薫が死去した後は、その蔵書を豊橋市図書館に寄贈したことで、同館に「丸山薫文庫」が設立された[12]。薫の没後は三四子もまた体調を崩し、入院生活を続けていた[2]。1995年(平成7年)12月、肺炎のため、愛知県豊川市内の病院で、88歳で死去した[2]。
著書の『マネキン・ガール』(1984年)は、昭和初期のモボ・モガのマネキン事情に加えて、夫の丸山薫の生活ぶりの実態を綴った名著として、美術・映画評論家の滝本誠が評価している[13]。詩人の岩瀬正雄は、マネキンをするほど容姿の優れた女性だが、決してそれを表面に出さず、2人の家庭を「清らかな親しみのある愛の家だった」と著している[9]。