駒井玲子
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こまい れいこ 駒井 玲子 | |
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『人の噂』1930年11月号 | |
| 生誕 |
長谷川 清子 1908年2月22日 |
| 死没 |
(1942-01-20) 1942年1月20日(33歳没) |
| 死因 | 結核 |
| 墓地 |
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| 国籍 |
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| 別名 | 浅沼 清子、浅沼 キヨ(結婚後の本名) |
| 出身校 | 鳥取高等女学校 |
| 活動期間 | 1929年 - 1940年 |
| 時代 | 明治 - 昭和 |
| 雇用者 | 山野千枝子 → 資生堂 |
| 団体 | 東京マネキン倶楽部 → 資生堂 |
| 前任者 | 山野千枝子(東京マネキン倶楽部) |
| 後任者 | 丸山三四子(同) |
| 配偶者 | 浅沼喜実 |
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駒井 玲子(こまい れいこ、1908年〈明治41年〉2月22日[1] - 1942年〈昭和17年〉1月20日[1])は、日本の美容家[2]。昭和初期のマネキンの代表的な人物の1人であり、当時のマネキンたちの中でも特に人気を集め、マネキンガールを職業として確立した人物である。「マネキンの元祖」「マネキンガール第1号」ともいわれる[3][注 1]。また、美容法の宣伝に注力していた資生堂において近代的な美粧法を提唱し、近代美容の向上に大きく貢献した[4]。本名は浅沼清子[4]、または浅沼キヨ[5]。旧姓は長谷川[6]。鳥取県鳥取市出身[4]。
マネキンとしての活動
1920年に鳥取市片原で誕生した[4]。1920年(大正9年)に鳥取高等女学校に入学。頭脳明晰の上に、国際語のエスペラント語を学ぶなど、進んで物事に取り組む性格で、学内では一目置かれていた。しかし当時の教育制度になじめなかったことで教員の1人と衝突し、卒業前に退学した[6][7]。その一方、自宅の一角を改装して花屋にし、小規模の喫茶コーナーを設置するなど、早くも商才の欠片を見せていた[4][7]。
1928年(昭和3年)に結婚。夫が社会主義活動に没頭して、自身も取り調べを受けたことで、1929年(昭和4年)4月[1]、兄を頼って、一家をあげて上京した[5][6]。
左翼活動を続ける夫を支えるために[8]、山野千枝子の立ち上げた東京マネキン倶楽部のマネキン募集に応募し、マネキンとなった[9]。当時は女性の社会進出が一般的ではなく、マネキンの女性たちは社会的に受け入れられていなかったために、素性を隠すためにマネキン・ネームを名乗ることが通例であり、清子もまたマネキン・ネームとして「駒井玲子」を名乗った[7]。
1929年(昭和3年)にデビュー[10]。資生堂の宣伝活動に携わった玲子は、はっきりとした目鼻立ちと明るい性格で人気を集め[7]、新聞や雑誌でも頻繁に紹介された[4][8]。雑誌では岡田嘉子、夏川静江、田中絹代といった当時の人気女優たちと共に紹介され、マネキンの社会的認知度を向上させた[7]。この分野の草分けとされる山野千枝子とは人気を二分しており、月収は300円を超えていた。これは当時の大学新卒者の7倍から10倍に相当する額である[7][11]。

東京マネキン倶楽部のマネキンの1人が鉄道自殺を図った際には、自ら街頭に立ち、マネキンの悲哀を訴えるビラを人々に配って回った。女性のそのような行動は当時としては前代未聞であり、新聞記事でも取り上げられ、玲子の知名度はさらに向上した[7]。
東京マネキン倶楽部が解散した後、1929年(昭和4年)8月に、解散前と同名の「東京マネキン倶楽部」を立ち上げ[12]、会長に就任した[9]。玲子の活動は世間から注目され、雑誌『モダン日本』では「1931年のイヴ 当代ナンバーワン集」に選ばれ[7]、『アサヒグラフ』では「働く新女性の行く道」と題して壇上での活躍ぶりが掲載されるなど[13][14]、当時のマネキンの代表といえる存在となった[15]。新劇の公演の観劇のためにある劇場を訪れたときには、劇団員たちが玲子の姿を一目見ようと、幕の袖で椅子を積み上げていたところ、椅子が崩れて客席に落ちてしまった、との逸話もあった[16]。
デパートを相手取って待遇の改善について団体交渉をし、時にはストライキも行うなど、当時としては新しい考えの持ち主でもあった[17]。『婦人公論』『近代生活』などの多くの雑誌でマネキンを代表する形でマネキンとしての理論を述べていたことから、東京マネキン倶楽部のみならず全マネキンきってのインテリ女性との声もあった[16]。
しかし後に玲子と会員たちの間の金銭トラブルが機となって、1932年(昭和7年)[18]、倶楽部の会長職を解任された。玲子は持ち前の積極さから、事業の拡大を計画しており、そのような性格も会員たちが受け入れにくいようだった[13]。
同1932年には銀座で、人材派遣業の「ファム・フォン協会」を立ち上げた[14]。これは玲子が、より社会的、実用的、地道な仕事を開拓する「女性新職集団」を目指したもので[19]、登録している職業婦人たちを依頼に応じて、マネキンを始めとして、洋裁、デザイン、タイピスト、商品セール、美術モデルなどの仕事に派遣するものであった[4]。名称はフランス語で「女性の職能」を意味する「femme fonction」の略で、文芸評論家の淀野隆三の命名である[4][注 2]。後年のクラブシステムの草分けといえるものであったが、依頼は少なく、成功には至らなかった[4][20]。
資生堂での活動
1933年(昭和8年)1月、玲子は美容法の宣伝に注力していた資生堂により、東京・大阪の百貨店へ派遣され、化粧品の宣伝のために美容実演を行った[14][21]。売場での本格的な美容実演は日本で初めての試みであり、好評を得、他の地方でも実演が行われた[14][22]。
玲子はこの活躍を買われて、同1933年5月、資生堂初のキャンペーンガールであるミス・シセイドウの採用と育成のため、意匠部部長の高木長葉により、資生堂の嘱託として迎え入れられた。資生堂での玲子は、自ら開発した新たな美粧法の試演会、ミス・シセイドウの面接[23]、ミス・シセイドウの女性たちへの美粧法、宣伝術、着付けなどの教育などを行った[24]。特に玲子の考案した美粧法は、白粉と紅だけによる和服向けの従来のものと異なり、洋装の女性たちの美を引き出す点において、平成期以降の化粧法にも通じるもので、人々の注目を集めた[14]。玲子は資生堂で「資生堂新美粧法」の企画を立て、化粧についての講演や実演を行うと共に、東北や北海道など東日本各地で、精力的な普及活動を行った[19]。玲子の実演は資生堂機関紙で「魅惑ある新宣伝方法」と報じられ、各地の人気を一身に集めた[25]。
しかし1936年(昭和11年)に小幡恵津子が美容部長となったことが、玲子の転機となった。正社員の上にアメリカで最先端の美容を学んだ小幡恵津子に対して、玲子は嘱託の上に美容法は独学、しかも10歳以上年下ののために、その立場が弱くなったのである[21]。玲子を資生堂に招いた高木長葉もすでに資生堂を去っており、後ろ盾も失われた状態であった[26]。玲子が手がけていたミス・シセイドウの女性たちも、小幡の入社後は、小幡による再教育が施された[5]。専務取締役の松本昇(後の資生堂2代目社長)も小幡の化粧法を採用したことで、玲子の化粧法もいわば、時代遅れも同然の状態となった[26]。
1937年(昭和12年)11月に小幡恵津子による資生堂美容室が開設されると、玲子は一介の技術者としての扱いとなった[21][26]。独立心の強い玲子はこのことで、1938年(昭和13年)3月頃[1][注 3]、資生堂を退職した[21]。
執筆業・美容業
同1938年の資生堂の機関紙では、玲子が本名の「浅沼キヨ」名義に改名した旨の一文があるが[5]、同1938年5月には、宇野千代の創刊によるファッション雑誌『スタイル』で、「駒井玲子」名義での執筆活動が開始された。かつて華々しく活躍した「駒井玲子」の名を汚さないように本名名義に戻ったものの、何事にも常に頂点でいたい性格のため、再度「駒井玲子」を名乗ったものとも考えられている[5]。
その後は雑誌『スタイル』で「お洒落訪問記」と題したコーナーで、岡譲司や大日方傳といった人気俳優の素顔のレポートや、ファッション談義などを担当した[5]。1938年10月には四ツ谷駅前に「駒井玲子美容室」を開業し、執筆活動と美容業を続けた[5][27]。
1939年(昭和14年)、ある著名なクラシック歌手が小幡恵津子の資生堂美容室を訪れて、パーマネントの担当に玲子を指名した。玲子がすでに退職して不在であったために、小幡恵津子が代わって担当を名乗り出たものの、その歌手が玲子を強く希望したことで、四ツ谷の美容室から玲子を呼び出して対応する事態となった。このことは玲子にとって、自身の溜飲を下げる一件となった[5]。
晩年
1940年(昭和15年)に結核におかされたことで文筆活動が途絶え、入退院を繰り返す身となった。結核が不治の病気と見なされていた時代であり、やがて千葉の国府台の病院に隔離となった。この闘病の最中にも、「フランスに行ってみたい」と言って、病床でフランス語の勉強に取り組んでいた[28]。
1942年(昭和17年)1月に隔離先の国府台の病院で、数え年35歳の若さで死去した[27]。最後の言葉として病床で息子に「我慢強い子供になりなさいね」と言い残したというが[28]、一方で臨終のときに、周囲で見守る人々に「あらまだ私死なないのかしら。そう見詰められるとテレちゃうわ」と言って絶命したとも伝えられている[29]。墓碑は郷里の鳥取市の玄忠寺にある[28]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 小宮 2006, pp. 153–154
- ↑ “駒井玲子”. コトバンク. 2026年3月7日閲覧。
- 1 2 関 2024, p. 22
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 鳥取県教育委員会 1990, pp. 440–441
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 小宮 2006, pp. 148–149
- 1 2 3 野口 2024, p. 205
- 1 2 3 4 5 6 7 8 小宮 2005, pp. 148–149
- 1 2 清原 & 鈴木 1991, p. 156
- 1 2 野口 2024, pp. 206–207
- ↑ 泉欣七郎、千田健 編『日本なんでもはじめ』ナンバーワン〈No.1 books〉、1985年3月15日、440頁。doi:10.11501/12405023。ISBN 978-4-931016-06-4。
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- ↑ 関 2024, p. 21
- 1 2 野口 2024, pp. 208–209
- 1 2 3 4 5 小宮 2005, pp. 150–151
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- ↑ 丸山 1984, p. 83
- 1 2 3 4 野口 2024, p. 187
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