東京マネキン倶楽部
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| 設立 | 1929年2月20日 |
|---|---|
| 設立者 | 山野千枝子 |
| 設立地 |
|
| 解散 | 1929年8月11日 |
| 本部 | 東京都千代田区丸の内 |
| 代表 | 山野千枝子 |
| 関連組織 | 日本マネキン倶楽部 |
1928年(昭和3年)10月、東京都千代田区の丸菱呉服店が、和服宣伝のための女性モデルを募集した。150人の応募があり、6人の女性がマネキンとして採用され、20日間のショーに出演した[4][5]。この6人と、結髪と着付けを担当した山野千枝子は、このショーが好評に終わったことで、マネキンが女性の新たな職業となることを確信した[5]。
一同での相談の結果、ショーの後で解雇された6人の仕事場として、山野が千代田区の丸ノ内ビルヂングにあった自らの事務室を解放し、諸費用を一切出すなどの支援を行う形で、「東京マネキン倶楽部」が結成された[4]。山野がこの組織を作ったのは、日本の女性が美しくなるためには美容だけでなく、服装の改善も必要であり、マネキンガールがその媒体として重要な存在だと考えたことも理由であった[6]。
1929年(昭和4年)2月20日に発会式が開催され[7]、同2月には活動開始、3月には百貨店でマネキンを用いた宣伝が相次いで行われた[8]。資生堂は東京マネキン倶楽部の発足後に契約を結んでおり、同年6月にマネキンを使用して商品の大々的な宣伝を行っていた[8]。当時、バスガールの日給が96銭、女工が50から70銭、女事務員の月給が20から50銭のところ、マネキンたちの日給は8円であり、かなりの高収入であった[9]。
この創設により、マネキンは新職業として初めてクローズアップされ[6]、女性の職業として定着した[10]。その一方で、ショーウィンドウの中にいる女性を見て、人形の代りと思う人も少なくなかった[6]。また、山野の美容についての意図を理解しない人々が、新聞に口汚い悪口を書くこともあった[6]。山野はそれに屈せず、近代の美容術の原点が服装と美容にあると説き続け、服装の改善を含めた女性の総合美を追求した[6]。
しかし同1929年8月、倶楽部に所属していたマネキンの1人が自殺未遂を起こした。このことが機となって、倶楽部の運営の権限が山野千枝子に集中されていることが問題視され、倶楽部の分裂に繋がった。駒井玲子、大崎千代子、高島京子らは新規に組織を立ち上げることになり、残るマネキン20数名によって、8月11日に解散式が行われた[11]。