主人と奴隷の弁証法

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの著作『精神現象学』に見られる一節 From Wikipedia, the free encyclopedia

主人と奴隷の弁証法(しゅじんとどれいのべんしょうほう、ドイツ語: Herrschaft und Knechtschaft: lord–bondsman dialectic)は、主と僕の弁証法とも訳され、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの『精神現象学』における有名な一節である[注釈 1]。これはヘーゲルの哲学体系における鍵となる要素と広くみなされており、後代の多くの哲学者に大きな影響を与えた。

この一節は、その出会いによってはじめて成立する二つの相異なる自己意識的存在のあいだの遭遇において、自己意識そのものが発展していく過程を物語の形式で描き出している。この弁証法の本質は承認の運動であり、二つの自己意識は、それぞれが他者によって自己意識的なものとして承認されることにおいて構成される。この運動は、その極限まで押し進められると「死をかけた闘争」の形をとる。そこでは一方が他方を支配する(beherrscht)に至るが、この状態において奴隷は承認を与える自由をもたないため、そうした主人の地位こそが、まさに求めていた承認を不可能にしてしまうことが判明する。

この一節はさまざまな分野に影響を与えてきた。とりわけアレクサンドル・コジェーヴによる主人と奴隷の弁証法フランス語: Dialectique du maître et de l'esclave)という訳語のもとでの人間学的解釈は、フェミニズムや批判的人種研究など、ヘーゲル自身が追究しなかった主題についての20世紀の仕事を触発した。

文脈

「自立的な自己意識と非自立的な自己意識——支配と隷属」は、『精神現象学』の「自己意識」章にある二つの見出し付き小節のうち最初のものである。同章では、それに先立って「生命」と「欲望」などが論じられ、それに続いて「自由な自己意識——ストア主義、懐疑主義、不幸な意識」が置かれている。

ヘーゲルがこの物語ないし神話を書いたのは、自己意識が弁証法的に止揚され、彼が絶対知・精神・学と多様に呼ぶものへと至る道筋についての自らの考えを説明するためであった。

承認

ヘーゲルにとって決定的に重要なのは、まず一つの自己意識が別の自己意識を承認することなしには、絶対知は成立しえないということである。彼は、実在の全体は自己意識にとって直接的に現前していると主張した[1]。それは三つの発展段階を経る。

  • 欲望——自己意識が自己以外のものへと向けられる段階
  • 主人と奴隷——自己意識が自己と等しくない他者へと向けられる段階
  • 普遍的自己意識——自己意識が他者のうちに自己自身を認める段階[要出典]

哲学史においてこうした問題を探究したのはヨハン・ゴットリープ・フィヒテのみであり[2]、ヘーゲルによるその扱いはヨーロッパ哲学における分水嶺をなしている。

ヘーゲルの寓話

ヘーゲルは二人の人間が出会う様子について、抽象化され理念化された歴史を語る。ただし、意識からの自己意識の発展と、絶対知におけるより高次の統一への止揚というヘーゲルの構想は、自然科学や進化生物学が語る脳の形態ではなく、歴史をもつ現象学的な構成物である。それは自らを実現する前に自由をめぐる闘争を経なければならないものである。

ヘーゲルが用いる抽象的な言語は、この物語を一義的に解釈することを許さない。それは子どもあるいは大人の発達を通じて自己意識が自己自身に到達する過程としても、人類史の始まりにおいて、あるいは自由を実現する社会や国民のあり方として自己意識が成立する過程としても読むことができる。

主人と奴隷の弁証法が一人の人間の内部で生じる内的過程としても、二人以上の人間のあいだの外的過程としても解釈できるのは、一つにはヘーゲルが「主体客体の対立の終焉」を主張していることによる。人間の精神のうちで起こることは、その外部でも起こる。ヘーゲルによれば、客観的なものと主観的なものは統一されるまで互いを止揚し合い、「物語」は、相矛盾する二つの契機の止揚がより高次の統一をもたらすさまざまな「契機」を通じてこの過程を辿るのである。

まず、二つの自然的存在が出会い、自己意識が別の「自立的な存在」のうちに体現されていることを見出す[3]。二つの存在は、両義的な他者が乗り越えられる、すなわち自己の反省以前の排他的な「対自存在」を承認させられるときにのみ、自らが「対自的」(すなわち自己意識的)でありうることを自覚している。一方の存在は事実上、自己意識、すなわち思考する存在としての自己の確信を独占しようとする。それゆえ、この最初の出会いから生じる自己意識は必然的に不完全である。というのも、それぞれが他者を対等な主体としてではなく「非本質的で否定的に規定された対象」[4]とみなすからである。二人の個人は自らの個別的な目的のために他者を操作する。彼らはナルシシズム的に、他者のうちに「映し出された」[5]自己を見ることに魅入られ、かつて自らの身体を制御したときと同じように、自らの意志を貫こうとする。

ヘーゲルによれば、

他者に近づくにあたって、自己意識は自らの自己を失った。というのも、それは自己を別の存在として見出すからである。第二に、それによって自己意識はその他者を止揚した。というのも、この原初的な意識は他者を本質的に実在するものとはみなさず、他者のうちに自らの自己を見るからである[6]

反応

他者と最初に対面したとき、自己は直ちに承認されることはない。「このように直接に現れ出るかぎり、両者は互いにとって通常の対象、自立した形態、生命の存在(あるいは直接性)に沈み込んだ個体である」[7]

死をかけた闘争

そこから死をかけた闘争が生じる。しかし、もし二人のうち一方が死んでしまえば、自己意識の達成は失敗に終わる。ヘーゲルはこの失敗を、必要とされる否定ないし止揚ではなく「抽象的否定」と呼ぶ。この死は、隷属への合意・伝達・従属によって回避される。この闘争において、主人は自らの同一性が生命に依存しているとは考えないために死を恐れず、それゆえ主人として現れる。他方、奴隷はこの恐れゆえに隷属に同意する。しかしながら、奴隷の側におけるこの恐れの経験は決定的に重要である。というのも、弁証法の後の契機において、それが奴隷のさらなる発展のための前提的経験となるからである。

支配と隷属

直接的な「対自存在」ではなく媒介されたものとしての自己意識としての自己の真理[8]は、両者が生き続ける場合にのみ達成される。他者による承認が、それぞれに自己意識に必要な客観的真理と自己確信を与えるのである。かくして両者は主人と奴隷の関係に入り、互いの承認を保持する。「この承認において、非本質的な意識[奴隷の意識]は主人にとって対象であり、それが自己確信の真理をなす」[9]

矛盾とその解決

しかしこの状態は幸福なものではなく、完全な自己意識を達成しない。奴隷による承認は死の恐怖によるものにすぎない。主人の自己意識は承認を奴隷に依存しており、また自然とは媒介された関係しかもたない。奴隷は自然に働きかけ、それを主人のための生産物へと形づくり始める。奴隷が自らの創造性によってますます多くの、ますます洗練された生産物を作り出すにつれ、彼は自分が作った生産物のうちに自己が映し出されているのを見始め、自らを取り巻く世界が自分の手によって作られたことを悟る。かくして奴隷はもはや自らの労働から疎外されておらず、自己意識を達成する。他方で主人は、奴隷が作り出す生産物に全面的に依存するようになる。すなわち主人は奴隷の労働によって隷属させられるのである。ヘーゲルの『世界史の哲学講義』によれば、「人類は隷属から解放されたというよりも、むしろ隷属によって解放されたのである」[10]

解釈

この弁証法についての一つの解釈は、奴隷も主人も完全に自己意識的とはみなしえない、というものである。すでに自己意識を達成した人間が奴隷にされることもありうるのだから、自己意識は個人的な達成や自然的・遺伝的進化の達成としてではなく、社会的現象として捉えられなければならない[11]

哲学者ロバート・ブランダムは次のように説明している。

ヘーゲルによる主人と奴隷の弁証法の議論は、非対称的な承認関係が形而上学的に欠陥をもつこと、それが打ち立てる規範は、われわれが思考し行為することを可能にするような——それとともに思考し行為するのにふさわしい——種類のものではないことを示そうとする試みである。この意味での非対称的な承認は、主人の側では責任なき権威であり、奴隷の側では権威なき責任である。そしてヘーゲルの議論は、権威と責任が釣り合い相互的でないかぎり、いかなる現実の規範的地位も打ち立てられない、というものである。これは彼の最も重要な、そして確実に最も深遠な着想の一つであるが、その議論がどのように働いているのかを見て取るのはそう容易ではない[12]

アレクサンドル・コジェーヴの独自の解釈はこれとは異なる。彼による主人と奴隷の弁証法の読解は、ヘーゲルの認識論的な形象を人間学的な主体に置き換え、歴史が主人と奴隷の闘争によって規定されることを説明した[13]。コジェーヴにとって、人間が生まれ歴史が始まったのは最初の闘争とともにであり、その闘争は最初の主人と奴隷をもって終わった。人はつねに主人か奴隷のいずれかであり、主人と奴隷が存在しないところに真の人間は存在しない。この闘争以前には、二つの力は動物的状態、ヘーゲルの言う自然的存在にあったが、その後も動物的状態にとどまるのは奴隷のみであると彼は主張した[14]。コジェーヴは、この相互作用を終わらせるためには両者が弁証法的に乗り越えられなければならないと論じた[13][15]。奴隷にとってそれは、革命的変革、すなわち与えられたままの世界の否定を要求する。その過程で彼は自己自身を変革するのみならず、新たな条件を創り出すことによって世界をも変革する[15]。歴史は、主人と奴隷の差異が消滅するとき、すなわち奴隷がもはや存在しないために主人が主人でなくなり、主人がもはや存在しないために奴隷が奴隷でなくなるときに終わる。主人と奴隷のあいだに総合が生じる。それがナポレオンによって創り出された普遍的かつ同質的な国家の完全な市民である[16]

影響

スーザン・バック=モースの『ヘーゲルとハイチ、そして普遍史』(2009年)によれば、ヘーゲルは雑誌『ミネルヴァ英語版』に掲載されたハイチ革命についての記事から影響を受けた。

主人と奴隷の関係は、とりわけカール・マルクス階級闘争概念——社会発展の原動力としての——との関連から、20世紀の数多くの議論や着想に影響を与えた[17]

ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法は、社会科学哲学文学研究批判理論ポストコロニアル研究、そして精神分析学において影響力をもってきた[18]。さらに、ヘーゲルの主人と奴隷という比喩、とりわけ承認の強調は、マルティン・ブーバーの『我と汝英語版』における関係の図式、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』におけるジェンダー関係の歴史と力学の記述[19]、そしてフランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』における植民地的関係の記述に決定的な影響を与えた[20]スーザン・バック=モースの論文「ヘーゲルとハイチ」は、ハイチ革命がヘーゲルの主人と奴隷の弁証法の執筆に影響を与えたと論じている[21]

関連項目

注釈

  1. 2025年時点で『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes)には5種の英訳がある。ジェイムズ・ベイリー英語版(1910年)、A・V・ミラー英語版(1977年)、マイケル・インウッド英語版(2018年)は "Lordship and bondage" を用い、テリー・ピンカード英語版(2018年)とピーター・フスおよびジョン・ドビンズ(2019年)は "Mastery and servitude" を用いている。

出典

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