久保道正
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くぼ みちまさ 久保 道正 | |
|---|---|
| 生誕 |
1918年3月16日 |
| 死没 | 1992年6月28日(74歳没) |
| 出身校 | 旧制広島一中 |
| 職業 | 実業家 |
| 活動期間 | 1946年 - 1992年 |
| 肩書き | 第一産業 創業者 |
| 後任者 | 久保允誉 |
| 子供 |
長男:久保允誉 次男:浄弘晴義 |
久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日[1] - 1992年〈平成4年〉6月28日)は、広島県広島市出身の実業家。第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者。現エディオン社長、サンフレッチェ広島会長・久保允誉は長男、上新電機取締役を経てエディオン専務取締役の浄弘晴義は次男。
広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ[2][3]。久保家は代々江州屋の屋号で刀剣商を営んでいた[4]。寺下辰夫の小説『サンパギタ咲く戦線で』に太平洋戦争中、陸軍報道班員として広島宇品港からフィリピンに向かう寺下、尾崎士郎、石坂洋次郎らが、その前日、今日出海の短刀を軍刀に拵えるため、ふと久保刀剣店に立ち寄り、刀が出来る間、店の二階で御馳走に与り、訣れの酒宴を行なったエピソードが書かれている[5][6]。
旧制広島一中(現・広島国泰寺高等学校)一年の時に手術ミスで左足が不自由になるが、そのため兵役を免れる[7]。
1945年8月6日、爆心地から約1.5kmの広島市住吉町(現在の中区)の結婚後に住んでいた新居で被爆[3][8]。爆風で倒壊した家の下敷きになるが、火勢が近づく中で奇跡的に救出され、九死に一生を得る[9]。
電気の世の中になるのではないかという漠然たる予感から、戦後の1946年1月、バラックを建て三坪の店構えで弟・明と「久保兄弟電気商会」を創業[10]。リュックサックを背負って、終戦後の超満員のすし詰め列車に乗り、東京や大阪で商品を仕入れ、広島市内の闇市の電気屋に卸して回った[10]。
1947年5月、義弟を加えてラジオ部品類の卸売を主とする「第一産業株式会社」に改組[11]。「産業」と付いているのは義弟が薬剤師で、最初は製薬と電気の両方をやっていたからである[12]。
電機メーカーから「これからは大量生産・大量販売の時代が来ますよ」とのアドバイスを受け1957年、卸売業から家電総合小売業に転換し、全国に先駆けて家電製品の低価格販売に踏み切った[3][11][13]。同年、低価格販売に反発した小売業界の圧力により20社近いメーカーから出荷停止を受け公正取引委員会が乗り出す問題となった(同委員会の全面的な支持を受け後に解除)[3][11][14]。しかし当時の新聞に"低物価政策の第一産業"などと書かれたことで大きな宣伝にもなった[15]。
1977年、店名を「ダイイチ」に統一[16]。低価格販売とアフターサービスの顧客第一主義を掲げ、家電製品の需要増加の波に乗り急成長を遂げた[11]。
創業40周年だった1987年には広島県のスポーツ振興のために私財を拠出し「久保スポーツ振興基金」を設立した[17]。
1992年 会長に退き、長男久保允誉が代表取締役社長に就任した。