久保允誉

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生誕 (1950-02-18) 1950年2月18日(76歳)
日本の旗 日本 広島県広島市
職業 エディオン代表取締役会長執行役員 CEO[1]
サンフレッチェ広島代表取締役会長[1][2]
子供 久保雅義(サンフィレッチェ広島社長)
渡辺典子(元・広島県議会議員)
くぼ まさたか
久保 允誉
生誕 (1950-02-18) 1950年2月18日(76歳)
日本の旗 日本 広島県広島市
出身校 早稲田大学商学部[1]
職業 エディオン代表取締役会長執行役員 CEO[1]
サンフレッチェ広島代表取締役会長[1][2]
子供 久保雅義(サンフィレッチェ広島社長)
渡辺典子(元・広島県議会議員)
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久保 允誉(くぼ まさたか、1950年昭和25年〉2月18日[3] - )は、日本実業家エディオン会長。サンフレッチェ広島会長[1]

広島県広島市に生まれる。実父は第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者の久保道正1978年早稲田大学商学部卒業[1]

1978年、第一産業に入社[3]取締役、常務取締役、専務取締役、副社長などを経て、1992年、代表取締役社長に就任[3]2002年、エディオンを設立、代表取締役会長に就任。2003年にエディオン取締役社長、デオデオ取締役会長に就任。2004年暮らしのデザイン代表取締役会長を兼務。2007年、不祥事によりミドリ電化役員の引責辞任を受けて、同社会長に就任。2009年、組織改編に伴いエディオンWEST社長に就任した。

一方で1987年から父の道正と財団法人久保スポーツ振興基金を設立し、広島県内のスポーツ振興を後押しした[4]

また、1998年に経営危機に陥ったJリーグサンフレッチェ広島の社長に就任し、経営改革を行い2000年度決算で黒字に転化。その後も長年にわたり地元財界とクラブの橋渡しをし、経営安定に努めた。2001年から(社)Jリーグ理事。2007年末、広島のJ2降格の責任をとり社長を退任し、サンフレッチェ広島会長に就任。2010年Jリーグ理事を退任。

2012年現在、サンフレッチェ広島会長、(財)広島県スポーツ振興財団理事、(財)広島県サッカー協会顧問、全日本アーチェリー連盟顧問、広島県アーチェリー協会会長、(財)久保スポーツ振興基金評議員。同年、各方面へのスポーツ貢献を認められたことから、ロンドン五輪聖火ランナーに選ばれ、マンチェスター市内を走っている[4]

略歴

  • 1968年 崇徳高等学校 卒業。
  • 1978年 早稲田大学商学部 卒業[1]
  • 1978年4月 第一産業(のちのダイイチ→デオデオ→エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)入社。
  • 1981年6月 ダイイチ取締役に就任。
  • 1981年7月 ダイイチ取締役常務に就任。
  • 1987年6月 ダイイチ取締役専務に就任。
  • 1991年6月 ダイイチ取締役副社長に就任。
  • 1992年4月 ダイイチ代表取締役社長に就任。
  • 1997年4月 社名を現在の株式会社デオデオに変更。
  • 1998年6月 サンフレッチェ広島代表取締役社長に就任。
  • 2001年 Jリーグ理事に就任。
  • 2002年3月 株式会社エディオンを設立。同社取締役会長に就任。
  • 2003年7月 エディオン代表取締役社長に就任。
  • 2003年7月 デオデオ取締役会長に就任。
  • 2004年3月 暮らしのデザイン代表取締役会長に就任。
  • 2007年12月 サンフレッチェ広島会長に就任。
  • 2007年12月 ミドリ電化会長に就任。
  • 2009年10月 エディオンWEST社長に就任。
  • 2024年6月 エディオン社長を退任。会長職は継続し代表権は保持。[5][6]

エピソード

被爆2世

両親と祖父母が1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下により被爆しており、久保は被爆2世である[7]。久保は母から「地獄のようだ」と聞いている[7]。久保家は紙屋町(現・広島市中区)の自宅で刀剣屋を営んでいたので原爆で従業員も身内も亡くなっている[7]。久保は毎年8月5日の夜に平和記念公園を歩いている[7]。久保は自身を「核兵器廃絶を強く言える一人」としている[7]

サンフレッチェ広島社長

2007年12月8日、サンフレッチェ広島のJ1・J2入れ替え戦の第2戦が広島ビッグアーチで行われ、広島のJ2降格が決定した。試合終了後、当時球団社長だった久保はロッカールームに入り、当時監督だったミハイロ・ペトロヴィッチに直接監督継続を要請した。ペトロヴィッチは降格の責任を取って辞任するつもりだったが、決定直後の状況下で要請してきたクラブの心意気に感動し継続を決意、異例の監督続投となった。これが奏功して主力の流出を最小限にとどめ、翌年のJ2を席巻、J1昇格、そしてその後のチームの成熟へと繋がった[8][9]

久保は後のインタビューで、やっているサッカーが間違っていないこと、ペトロヴィッチが選手に慕われているため、監督を替えることより継続を選んだ、と話している。なお、降格の責任は久保以下フロントスタッフが役員降格等でおこなっている[9][10]

評価

週刊ダイヤモンド[11]における独裁経営者実名ランキングで上場企業の経営者627名中30位、経営の正当性としては100点満点中20.91点という評価を受けている。

親族

関連著書

脚注

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