久永重勝
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久永氏は石見国久永を名字の地とする賀茂氏(賀茂吉備麻呂[1])の末裔を称する一族で、祖父重吉の代に三河国額田郡に移って松平氏・徳川氏に仕えた。
徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは敵兵2人を射殺す武功を上げ、家康より葵紋入りの矢筒と弓立を拝領し、遠江国榛原郡に200石を与えられた。天正18年(1590年)小田原征伐、天正19年(1591年)九戸政実の乱での陸奥岩出山城出張、文禄元年(1592年)肥前名護屋城出張に従う。名護屋城出張の際には自ら銀鞘の佩刀で出仕したために家康の感心を買い、兵糧300俵を賜っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにも従軍。
慶長8年(1603年)からは徳川秀忠に属し、武蔵国児玉郡に550石を与えられる。のち弓頭となり、同心10人足軽50人を預けられ、所領も武蔵・上野・常陸に5千2百石を与えられた(ただし、内2千石は同心足軽の知行)。慶長10年(1605年)秀忠の上洛に随行。慶長14年(1609年)武者船没収が発令されると、九鬼守隆・向井忠勝とともに淡路国へ出張している。慶長16年(1611年)常陸・下野に群盗が蜂起すると、服部保正・細井勝久と共にその鎮撫を命じられ、案内人を催してこれらを鎮定した。のち下野大光院の普請奉行となる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣のために出陣し、休戦後の大坂城総堀埋め立ての奉行となる。慶長20年(1615年)夏の陣にも出陣。家督は子の重知が継いだ。