井上薫 (銀行家) From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 (1906-05-13) 1906年5月13日 日本・千葉県我孫子市死没 (1993-04-18) 1993年4月18日(86歳没)死因 呼吸不全出身校 東京帝国大学経済学部いのうえ かおる 井上 薫生誕 (1906-05-13) 1906年5月13日 日本・千葉県我孫子市死没 (1993-04-18) 1993年4月18日(86歳没)死因 呼吸不全出身校 東京帝国大学経済学部職業 銀行家配偶者 井上 光子栄誉 藍綬褒章(1968年)勲一等瑞宝章(1976年)[1]テンプレートを表示 井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、第一勧業銀行初代会長を務めた。千葉県我孫子市出身[1]。妻・光子は渋谷米太郎の長女[2]。 開成中学、一高を経て[3]、1929年に東京帝国大学経済学部を卒業。同年に第一銀行に入行[1]。調査部長、審査第一部長等を歴任[4]。 1954年に取締役に選任[4]。常務、専務、副頭取を経て、1962年に頭取に就任し、1966年に会長に退いた[4]。しかし、当時第一銀行と三菱銀行の合併話が進んでいたことから、酒井杏之助相談役と共に合併反対派の領袖として、当時頭取で合併推進派だった長谷川重三郎と対立する[5]。結局合併は破談となり、その責任を取って長谷川が頭取を辞任したため、1969年に頭取に復帰した[1][5]。本人は第一銀行OBで当時川崎製鉄副社長だった岡田貢助を担ぎ出して頭取に据えることをメインに考えていたが、岡田やその上司である藤本一郎から反対に遭ったため断念しており、頭取復帰はやむを得ない選択だったという[6]。 本人は金融再編そのものには賛成であり「非財閥系の銀行なら合併してもよい」という考えだったため、その条件に合致する日本勧業銀行(勧銀)との合併を模索する。元第一銀行常務で澁澤倉庫社長の八十島親義を仲介者として、勧銀頭取の横田郁と約1年に渡る合併交渉を行い、1971年に第一勧業銀行が発足した際には初代会長に就任。1976年からは横田と揃って名誉会長を務めた[1][7]。このほか、金融制度調査会委員も務めた[7]。 1993年4月18日、呼吸不全のために死去[7]。86歳没。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 『現代物故者事典 1991-1993』p76 ↑ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)い26頁 ↑ 「日本近現代人物履歴事典」(秦郁彦編著、東京大学出版会、2002年) 1 2 3 日本金融名鑑 1973年版 1972, p. 69. 1 2 「第一銀行と三菱銀行が合併!!」 1969年「読売新聞」元旦特大スクープは、いかに『大逆転』され『呪縛』のもととなったか - WEZZY・2019年1月1日 ↑ 『大合併 小説第一勧業銀行』(高杉良経済小説全集第7巻、角川書店、1996年)pp.84 - 92 1 2 3 日本経済新聞 朝刊 1993年 4月19日 p1 参考文献 『日本金融名鑑 1973年版』日本金融通信社、1972年。 先代酒井杏之助 第一銀行頭取1962年 - 1966年 次代長谷川重三郎 先代長谷川重三郎 第一銀行頭取1969年 - 1971年 次代(合併により消滅) Related Articles