八十島親義 From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 (1907-11-25) 1907年11月25日 日本・東京死没 (1990-06-11) 1990年6月11日(82歳没)死因 心不全出身校 慶應義塾大学経済学部やそしま ちかよし 八十島 親義生誕 (1907-11-25) 1907年11月25日 日本・東京死没 (1990-06-11) 1990年6月11日(82歳没)死因 心不全出身校 慶應義塾大学経済学部職業 実業家親 八十島親徳親戚 八十島信之助(弟)八十島義之助(弟)栄誉 勲三等瑞宝章(1978年)[1]テンプレートを表示 八十島 親義(やそしま ちかよし、1907年(明治40年)11月25日 - 1990年(平成2年)6月11日 )は、日本の実業家。澁澤倉庫社長を務めた。 東京出身[1]。渋沢栄一の秘書役を務め「渋沢家の番頭」として知られる八十島親徳の二男として生まれる。法医学者八十島信之助と土木工学者八十島義之助は弟[2]。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1931年に慶應義塾大学経済学部を卒業。同年第一銀行に入行した[1]。本店営業部貸付課長、同部預金課長、京橋支店次長、深川、八重洲口各支店長、総務部長を歴任[2]。1957年11月に取締役に選任され、1960年11月に常務に昇進[2]。 1964年4月に澁澤倉庫社長に転じ[1]、東京湾内の江東埋立地区に海上コンテナ専用倉庫を建設するなど、意欲的な経営に取り組む[3]。1973年5月に会長、1985年6月には名誉会長となる[1][4]。この間、1984年から亡くなるまで竜門社の理事長も務めた。 当時は第一銀行が金融自由化の中で翻弄されていた時期であり、第一銀行と三菱銀行の合併話では合併反対派の一人として同行会長の井上薫側に与したが、一方で合併を推進した当時の頭取・長谷川重三郎とも個人的に懇意だったため、両者の仲介役を務めた。さらに三菱銀行との話が破談となった後、第一銀行と日本勧業銀行(勧銀)の合併交渉の過程では、第一銀行頭取に復帰した井上と勧銀頭取の横田郁との間の仲介役となり、第一勧業銀行の誕生に深く寄与した[5]。 1990年6月11日、心不全のために死去[6]。82歳没。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 興信データ株式會社 1985, や13頁. 1 2 3 人事興信録 第25版 下 1969, p. や 12. ↑ 現代財界家系譜 第5巻 1971, p. 482. ↑ 日本経済新聞 朝刊 1985年5月11日 p13 ↑ 『大合併 小説第一勧業銀行』(高杉良経済小説全集 第7巻、角川書店、1996年)pp.60 - 69、pp.99 - 105 ↑ 日本経済新聞 朝刊1990年6月12日 p35 参考文献 人事興信所 編『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年。 『現代財界家系譜 第5巻』現代名士家系譜刊行会、1971年。 興信データ株式會社『人事興信録 第33版 下』興信データ、1985年。 先代中山正則 澁澤倉庫社長1964年 - 1973年 次代田中昌司 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 Related Articles