井染祿朗
日本の陸軍軍人 (1878-1930)
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経歴
山梨県出身[1][2][3]。吉田文護の二男として生まれ、宮司・井染得佶の養子となる[1]。陸軍幼年学校を経て、1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し[2]、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる[1][3]。日露戦争に出征[4]。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し参謀本部員となる[1][2][3]。
1911年(明治44年)11月、歩兵少佐に昇進[1]。1913年(大正2年)4月、ロシア大使館付武官補佐官に発令され、参謀本部付、近衛歩兵第3連隊付、参謀本部付、参謀本部員を務め、1919年(大正8年)7月、浦塩派遣軍司令部付となりシベリア出兵に出動[1]。ウラジオ特務機関長、チタ特務機関長を務め情報収集に従事[2][3]。1920年(大正9年)1月、歩兵大佐に進んだ[1][3]。
1921年(大正10年)4月、歩兵第37連隊長に就任[1][3]。第14師団参謀長を経て、1924年(大正13年)2月、陸軍少将に進級し第4師団司令部付となる[1][2][3]。1925年(大正14年)5月、歩兵第16旅団長に転じ、軍事調査委員長を経て、1929年(昭和4年)8月、陸軍中将となり第16師団留守司令官に就任したが、翌年4月、在任中に死去した[1][2][3]。