交響曲第2番 (シューマン)
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ロベルト・シューマンの交響曲第2番ハ長調作品61は、1845年から1846年にかけて作曲された。シューマンが完成した交響曲としては実質的に3番目にあたるが、2番目のものは後年改訂出版されて「第4番」とされたため、出版順序によって第2番となった。
1843年からロベルト・シューマンはフェリックス・メンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院で教鞭を執っていたが、1844年前半のロシア旅行以降は精神障害や体調不良に悩まされるようになり[1]、教職と『新音楽時報』の編集職を辞任、同年12月にドレスデンへ移った。ドレスデンでは当時同地の宮廷楽長であったリヒャルト・ワーグナーやフェルディナント・ヒラーらと交際し、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの研究[注 1]にも再び取り組んでいる[5]。しかし心身の不調はなおも続いていた[2]。
1845年7月にピアノ協奏曲イ短調を完成させ、10月に『序曲、スケルツォと終曲』の改訂を終えた[6][注 2]シューマンは、12月9日に聴いたシューベルトの大ハ長調交響曲の再演に触発され、12日に新しい交響曲のスケッチを始めた[2][7]。第1楽章のスケッチが終わった時点である12月18日のメンデルスゾーンへの手紙には「数日間、トランペットと太鼓が私の中で響いています(ハ調のトランペット (Tromba) です)。これがどうなっていくか私にも分かりません」と記している[2][8][注 3]。12月中にはスケッチが完了したが、翌1846年2月に始められたオーケストレーションは体調不良のためなかなか進展せず、総譜が完成したのは10月のことだった[2][10]。シューマンのほとんどの交響曲は短期間で一気に書かれているが、この曲の作曲期間は比較的長期にわたっている。
初演は1846年11月5日に、メンデルスゾーン指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって行われた。この初演の反応はさほど芳しくなく[注 4]、周囲の讒言もあってシューマンとメンデルスゾーンの仲は冷え込むことになる[12]。11月16日の同じ顔ぶれによる再演に向けてすぐに改訂が施され、こちらの演奏会は好評だった[10]。さらなる手直しを経て翌1847年に出版され、スウェーデン国王オスカル1世に献呈された[2]。
シューマンの交響曲のなかで最も遅く日本初演されたものであり、1963年3月29日、東京文化会館にてモーリス・ルルー指揮、日本フィルハーモニー交響楽団によって行われた[13]。
作品
1849年に指揮者のゲオルク・ディートリヒ・オッテンに宛てた手紙で、シューマンはこのように語っている。
私はこの交響曲を1845年12月、まだ半病人 (halb krank)のまま作曲しました。作品からはそのことが聴きとれるはずだと思います。終楽章でようやく人心地がつきはじめ (fing ich an mich wieder zu fühlen)、本当に回復したのは全体が完成してからです。とはいえ、述べたようにこの曲は暗黒の時代を思い起こさせます。しかしあなたの共感からは、このような苦痛の響き (Schmerzenklänge) さえも興味を引き得たのがうかがえます[2]。
また、ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァシレフスキには「スケッチは(...)まだとても身体的に苦しい時期でした。言ってみれば、ここには精神の抵抗とでも呼ぶべきものが明らかな影響を及ぼしていて、そうして私は自分の状況と戦おうとしていたのです。第1楽章はこの闘争に満ちており、非常にむら気かつ強情 (launenhaft, widerspenstig) な性格です」と語った[2]。こうした証言からこの作品は当時のシューマンの、心身の深刻な不調とそこからの再起に重ね合わせられる[14][7][15]。ただし一方で、アルンフリート・エードラーはシューマンの複数の発言から「統一のとれた全体像が見えてくることはない」と述べ[12]、ジョン・ダヴェリオは「シューマンの鬱傾向を音楽から読み取ろうとするのは魅力的かもしれないが、この [交響曲第2番の] 場合、その試みは聴覚上の現実と合致しないだろう」とする[16]。
1845年の前半、シューマンは対位法の研究に熱中し(「フーガの年」)いくつかの対位法的作品を残している。この年からシューマンは、ピアノを使って作曲していくのではなく頭の中で構成していく「新しい作曲方法」を展開しはじめたと語っており、対位法研究を経た作曲法の変化がこの作品にも生かされていると考えられる[7]。
19世紀においては、理解が難しいという意見もあるもののおおむね重要な作品として高い評価を得ていたが、20世紀に入ると厳しい判断を下される場合も増え[17]評価が分かれる面がある。その一因は、重みがおかれているフィナーレの構成が伝統的な類型から逸脱していることだが[17]、前田昭雄は、「それまでのすべての楽章、すべての経緯が」フィナーレに流れこむという全体的構想からみなければフィナーレの構成は説明できないとし、「モーツァルトの『ジュピター』[注 5]、ベートーヴェンの『第五』、シューベルトの『大ハ長調』、さらにブラームスの『第一』へとつづく偉大なる系列にしっかりと立っている」と評している[18]。
楽器編成
楽曲構成
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4つの楽章からなり、演奏時間は約40分[19]。
第1楽章 Sostenuto assai - Allegro ma non troppo
ハ長調。序奏付きのソナタ形式(提示部反復指定あり)。序奏は6/4拍子、49小節。弦のなだらかな動きの上に、トランペットが付点付きの5度跳躍動機[注 6]を示す。この動機は全曲の統一動機(モットー)として、随所に現れる。第1主題の動機を予告しながら切迫するが、いったん落ち着き、気分を整えたところで主部にはいる。
主部は3/4拍子。提示部・再現部よりも展開部とコーダに比重が置かれる[12]。第1主題は序奏で現れた動機の反復による、軽快なもの。第2主題はあまり明瞭には認められず、第1主題から派生した音階の上昇・下降によっている。コデッタも第1主題のリズムから派生したものである。展開部は序奏のなだらかな音型も示され、上記シューマン自身の説明にあるように闘争的で、特定の音型、リズムが何度も繰り返し現れる。前半は推移部の素材や第2主題が中心に扱われ、後半になると第1主題も現れてクライマックスを形成していく。245小節からの再現部では第1主題はより強圧的になっているが、後は型どおりに進行する。309小節からのコーダでは序奏のトランペット動機が現れる。
第2楽章 Scherzo. Allegro vivace
ハ長調。2/4拍子。二つのトリオを持つA-B-A-C-A-Codaのスケルツォ。弦によるスケルツォ主題は同一音型の繰り返しが多く、めまぐるしい。第1の中間部はト長調、3連符の柔和なもの。第2の中間部は穏やかだが推進性を持つ。コーダではトランペットによる統一動機が現れる。
第3楽章 Adagio espressivo
ハ短調。2/4拍子。A-B-A-C-A-B-A-Codaのロンド形式風の構成。主部はヴァイオリンが半音階的な、愁いに満ちた旋律を奏し、各楽器が歌い継ぐ。第1副主題(B)はホルンの分散和音風音形、木管の音階的な簡単な音形の繰り返しからなる。第2副主題(C)は弦のスタッカートと切分音が特徴的だがエピソード的で短い[注 7]。
第4楽章 Allegro molto vivace
ハ長調。2/2拍子。展開部を欠いたソナタ形式に長大なコーダという自由な形式。牽引するような短い前奏に続いて躍動的な第1主題が出る。第2主題は第3楽章の歌謡主題に基づく。すぐに第1主題が再現するが、前奏の動機が展開され、第2主題の反行形につづいて統一動機が現れる。曲はしぼむようにいったんハ短調に収束する。
ここから木管が新しい主題を示すところからがコーダと見られるが、第2部ともいえるほど長大。音楽は次第に力を取り戻し、新しい主題が賛歌のように歌い継がれ、前奏の動機を繰り返して高揚する。ベートーヴェン『遥かなる恋人に』からの引用ともされる[21][22][注 8]コーダの主題と統一動機が掛け合うようにすすみ、壮麗な音楽に発展して、ティンパニの連打を経て輝かしく終わる。
後半部主題

オーケストレーションの変更・改訂
他のシューマンの交響曲と同様に、かつては様々な指揮者が様々なオーケストレーションの変更を行っていた。その中で最も過激な変更を行ったのがマーラーであり、終楽章コーダでは大幅なカットを施している。このマーラー版の録音としてはチェッカート、シャイー(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との新盤)、スダーンのものが存在するが、チェッカートが終楽章のカットをそのまま採用しているのに対しシャイー、スダーンはカットを採用していない。またトスカニーニも、終楽章のカットは採用していないがマーラー版のオーケストレーションの多くを採用している。またレヴァインの録音(ベルリンフィルとの新盤)がマーラー版であるとされて販売されたことがあったが、実際はほぼ原典版通りの演奏である。