1626年(寛永3年)、名古屋城で誕生した。幼名はお鶴、ついでお京。不幸にも足がやや不自由であったが、母に似て美しく、和歌・管弦をよくし、書画にも巧みで、父義直から溺愛された。ために他国に嫁ぐことが極端にためらわれ、いたずらに婚期を逸していた[1]。
1649年(慶安2年)12月11日、八条宮智仁親王の三男である幸丸と婚約する。翌3年(1650年)に父義直が没するが、その遺志により、1651年(慶安4年)、幸丸を名古屋に迎え、無事婚姻が成った。京姫は相次いで5人の女子を産んだ。長女・新姫は甥徳川綱誠の正室となった。次女以下4人は、皆兄徳川光友の養女となり、大名家に嫁いだ[2]。
幸丸は結婚前に元服して忠幸を名乗っていたが、1663年(寛文3年)、清華に列し、1000石を支給され、広幡忠幸となった。この時以降、忠幸は京に在って来宅しなかった。忠幸は京に愛人がおり、庶子をもうけたが、尾張家には報告しなかった。忠幸の死後にこれを知った光友は怒って、広幡家と義絶した[3]。
忠幸が1669年(寛文9年)に没すると落飾し、普峯院と号した。1674年(延宝2年)、死去。享年49。墓所は愛知県名古屋市の政秀寺[4]。