柳原愛子
大正天皇の生母
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柳原 愛子(やなぎわら なるこ[4]、1855年5月31日〈安政2年4月16日〉[7]または同年6月1日〈4月17日〉[8]または1859年6月26日〈安政6年5月26日〉[注釈 2] - 1943年〈昭和18年〉10月16日)は、明治天皇の側室で、大正天皇の生母。幕末の議奏・柳原光愛の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪にあたる。
| 柳原愛子 | |
|---|---|
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柳原愛子像 | |
第123代天皇母 | |
| 誕生 |
1855年5月31日 (安政2年4月16日)[1] 1855年6月1日 (安政2年4月17日)[2] 1859年6月26日 (安政6年5月26日)[注釈 1] |
| 薨去 |
1943年10月16日(88歳没) |
| 陵所 | 祐天寺 |
| 諱 | 愛子(なるこ)[4] |
| 別称 | 二位局(にいのつぼね)、梅ノ井(うめのい)、早蕨典侍(さわらびてんじ)、早蕨局(さわらびのつぼね)など |
| 氏族 | 柳原家 |
| 父親 | 柳原光愛 |
| 母親 | 長谷川歌野[5] |
| 配偶者 | 明治天皇 |
| 入内 | 1872年(明治5年) |
| 子女 | |
| 身位 | 従二位、贈従一位 |
| 女官職 | 皇太后宮小上臈→掌侍(勾当内侍)→権典侍→典侍→皇后宮職[5]→皇后宮御用掛・御内儀監督 |
| 栄典 | 勲一等宝冠章 |
| 宗教 | 神道、法華宗[6] |
生涯
1870年(明治3年)、皇太后宮小上臈として出仕して英照皇太后に仕えた[5]。同年6月、掌侍(勾当内侍)となって従五位に叙された[5]。1872年(明治5年)に中山慶子の推挙によって明治天皇の御所に出仕し、翌1873年(明治6年)2月に権典侍となった[5]。同年5月に、正五位[5]。
容貌秀麗かつ賢婦人であり[10]、明治天皇の後宮で寵愛を受け、第二皇女・薫子内親王、第二皇子・敬仁親王、第三皇子・嘉仁親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。
明治時代には、計3回、歌会始で詠進歌が選歌に入った。
| 「 | 朝日かげ つばさにうけて まふ鶴は くもらぬ御代を 空にしるらむ | 」 |
—柳原愛子(明治17年歌会始「晴天鶴」[11] より) | ||
| 「 | 池水に うつろふ影は 緑にて 松の葉しろく 雪ふりにけり | 」 |
—柳原愛子(明治21年歌会始「雪埋松」[11] より) | ||
| 「 | 大空は 霜くもりして 咲く梅の 花のみ白し ありあけの月 | 」 |
—柳原愛子(明治44年歌会始「寒月照梅花」[11] より) | ||
九条節子(のちの貞明皇后)が皇太子妃に決定し、6人の典侍がその教育係となるが、柳原愛子もその一人として、厳格でありながら柔和な人柄で後見した[12]。
1902年(明治35年)に典侍に任官。1911年(明治44年)の皇后の還暦を祝う式典では、典侍として高倉寿子とともに女官の筆頭を務めた。高倉寿子は皇后の入内に際し補導役として実家。一条家から供をしてきた腹心であり、女官長として、明治天皇の御側女官たちを管理する役割も担っていた[13]。
また同年、皇太子妃節子が腸チフスのため葉山御用邸で療養すると、愛子も付き従い、節子が重篤となると自ら水垢離をし、法華経を唱えて快癒を祈念した[14]。翌1912年(明治45)に明治天皇が重篤となると、九条家ゆかりの東京白山・大乗寺に度々参詣しては自ら法華経を唱え、天皇の全癒を祈念した[15]。明治天皇は7月30日に崩御。その大喪儀のおり、昭憲皇太后が女官たちに御埋棺を拝する許可を下すと、愛子は直ちに霊柩車に扈乗して儀式を拝した[16]。1912年(大正元年)9月14日夜に伏見桃山陵における霊柩の埋葬にも、靴も履かずに側近くで膝行して拝した[17]。
大正天皇の即位後、典侍を免ぜられて皇后宮職に異動する[5]。1913年(大正2年)7月に正三位皇后宮御用掛・御内儀監督となる。1915年(大正4年)12月1日、従二位に叙された。1925年(大正14年)5月10日、勲一等瑞宝章を授けられた。大正天皇が重篤となった際も、明治天皇の時同様に大乗寺で祈りを捧げた[18]。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、孫である昭和天皇が践祚した。これで明治天皇との間に儲けた子全てに先立たれたこととなる。1940年(昭和15年)2月11日、勲一等宝冠章を受章。
1943年(昭和18年)10月16日に危篤となり、皇太后節子自身の見舞いも受けた[19]が、そのまま四谷区西信濃町の自邸にて逝去[11]。満88歳没、享年89。同日午後、弔問のため天皇は久松定孝侍従を勅使に、皇后は万里小路ソデ皇后宮女官を皇后宮使に、皇太后は竹屋津根子皇太后宮女官長を皇太后宮使として柳原愛子邸にそれぞれ差遣した。同日付で、従一位に追叙[20]。葬儀は10月20日、東京の青山葬儀所で白根松介宮内次官を葬儀委員長に仏式にて執り行われ、天皇・皇后・皇太后はそれぞれ勅使、皇后宮使、皇太后宮使を差遣した[21]。墓所は祐天寺[11]。
退官後は平河町、西信濃町に住した。死後、1944年(昭和19年)、柳原義光の願い出により、邸宅は皇室に献上された[22]。第二次世界大戦後、麹町区平河町の旧邸跡にはみどりコート平河町(JA共済ビル)、四谷区西信濃町の旧邸跡には創価学会総本部世界聖教会館が建てられ、それぞれの跡地に柳原邸時代の石灯籠やレンガ塀などの遺構が残されている。
人物

- 皇太子妃時代の貞明皇后の教育係を担った際は「かげになり、日向になり、年若い妃をおかばいし」、16歳の少女であった皇后は「そのあたたかい思いやりを、実の母のようにうれしく思った」という[23]。裁縫をよくした皇后は、この「母」の米寿の祝いに88枚の美しい時代裂を集め、布団を縫い上げて贈った[23]。
- 東京朝日新聞は、大正天皇崩御の際の柳原愛子の様子を「よよとばかり、御枕辺に二位局 老の身痛はしく 張り詰めた気もくじけて」と伝えている[24]。
- 大正天皇が暗愚であったという風説は大正時代からあり、そのためその遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があった。だが実のところ大正天皇は慢性的脳膜炎が変調の原因であり、これは明治天皇の夭折した10人の子女の死因でもある[13]。
皇子女
系図
| 昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||||||||
| 子女無し | |||||||||||||||
| 葉室光子 (1853-1873) | |||||||||||||||
| 稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||||||||
| 橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||||||||
| 稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||||||||
| 明治天皇(第122代天皇) | |||||||||||||||
| 梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||||||||
| 柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||||||||
| 滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 千種任子 (1856-1944) | |||||||||||||||
| 久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||||||||
| 竹田宮恒久王 | |||||||||||||||
| 周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||||||||
| 北白川宮成久王 | |||||||||||||||
| 富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||||||||
| 朝香宮鳩彦王 | |||||||||||||||
| 満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||||||||
| 東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||
| 貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||||||||
| 園祥子 (1867-1947) | |||||||||||||||