京極高朗 (旗本)
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旗本滝川具近(1200石)の次男として生まれる。同じく大目付となった滝川具挙は実兄に当たる。嘉永6年(1853年)、旗本京極高孝(2000石)の養子となって家督を継承した[1]。
安政元年(1854年)、小姓組番士となり、同6年(1859年)、使番に任命されて布衣を許された[1]。
万延元年(1860年)、目付に任じられ、外国貿易を担当する[1]。文久元年(1861年)3月、遣欧使節の目付に選ばれ[2]、5月、特命により通常目付では叙任されない従五位下とされ、能登守を称する[3]。
同年12月に正使竹内保徳、副使松平康直(康英)らと共に品川を出帆した。使節は各国で大歓迎を受け、開港延期の目的を達成した。一方、ロシアとの樺太国境交渉について、ロシアのアジア局長イグナチェフとの折衝の結果、竹内らは北緯48度まで譲歩させることに成功した。しかし京極が、老中安藤信正の寸土も譲るべからずとの訓令を盾に反対し、合意には至らなかった[要出典]。
1年後の文久2年(1862年)12月に帰国し、所領200石を加増された[4]。翌3年(1863年)2月、大阪湾の砲台建築に関する事務を命じられるが4月に病気を理由に目付を辞職した[1]。
辞職の翌月の5月には神奈川奉行に任命されて職務復帰。同年9月に長崎奉行、11月に騎兵奉行に遷任し、翌元治元年(1864年)6月には目付に再任された[1]。
同年8月、第一次長州征討に際して将軍徳川家茂の扈従を命じられ、また大目付に任じられる。しかしほどなく、同年10月29日に没した[要出典]。義弟の林学斎が撰した墓碑銘によれば実際の死亡日は9月2日。享年37[1]。