竹内保徳 From Wikipedia, the free encyclopedia 文久遣欧使節の代表。左から2人目が竹内保徳。左端は松平康英(康直)、右隣から順に京極高朗、柴田剛中。 竹内 保徳(たけのうち やすのり、文化4年(1807年)[1][2] - 慶応3年2月1日(1867年3月6日))は、江戸時代末期(幕末期)の幕臣。官位は下野守、幼名清太郎[1]。父は200俵の旗本・竹内富蔵。 勘定所に出仕し、勘定組頭格を経て嘉永5年(1852年)勘定吟味役・海防掛に就任[1]。嘉永6年(1853年)の黒船来航後は台場普請掛・大砲鋳立掛・大船製造掛・米使応接掛を兼任。安政元年(1854年)、箱館奉行就任[1]。幕府の命令に逆らって、アイヌに髪の毛を切ることを免除したことや、漁を発展させたことでアイヌの尊敬の対象となったとも言われる[3]。在任中にニシンが豊漁だったため、ニシン奉行とあだ名された[1]。 文久元年(1861年)、勘定奉行兼外国奉行に就き[1]、同年12月に遣欧使節(文久遣欧使節)正使として30余名を伴い横浜から出港してイギリスへ向かう[1]。ロンドンでは第二回ロンドン万博にも出席した。攘夷運動に鑑み、江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港延期の目的で欧州各国を訪問、五カ年延期に成功。文久2年(1862年)5月、イギリスとの間にロンドン覚書として協定されたのを始めプロシア、ロシア、フランス、ポルトガルとの間に同じ協定を結んだ。文久2年(1862年)にフランス船で帰国したが[1]、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和しようとしていたため登用されず、翌年勘定奉行を辞任[1]。元治元年(1864年)5月に大坂町奉行に推薦されたが着任せず退隠し[1]、同年8月に閑職の西ノ丸留守居となる[1]。慶応元年(1865年)12月には横浜製鉄御用引受取扱となった。慶応3年(1867年)に死去[1]。墓所は東京都新宿区の養国寺。 脚注 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 “竹内下野守保徳〜函館ゆかりの人物伝”. www.zaidan-hakodate.com. 函館市文化・スポーツ振興財団. 2022年3月15日閲覧。 ↑ 生年は1806年、1810年とする説もある(日本大百科全書(ニッポニカ))。 ↑ Roux, Brendan Le「フランス人宣教師メルメ・カションの「日本のヒエラルヒーに関する研究」-(≪ Etude sur la hierarchie japonaise ≫)の試訳-」『言語文化研究』第31巻第2号、2012年3月1日、45–73頁。 参考文献 この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年3月) 河原芳嗣『江戸の旗本たち』(アグネ技術センター、1997年) 222-223頁 佐藤明子『幕末外交事始―文久遣欧使節 竹内保徳』(宮帯出版社、2010年) 表話編歴箱館奉行(蝦夷奉行・松前奉行)箱館奉行(蝦夷奉行)1802-1807 戸川安論 羽太正養 (松前奉行に改称) 松前奉行1807-1821 戸川安論 羽太正養 河尻春之 村垣定行 荒尾成章 小笠原長幸 服部貞勝 安藤雅久 本多繁文 夏目信平 高橋重賢 (松前藩の復領により廃止) 箱館奉行1856-1868 竹内保徳 堀利煕 村垣範正 津田正路 勝田充 糟屋義明 水野忠徳 小出秀実 新藤方凉(奉行並) 杉浦勝静 栗本鯤 織田信重 橋本悌蔵(奉行並) (明治維新により廃止) 典拠管理データベース 全般VIAFWorldCat国立図書館アメリカ Related Articles