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亮祿

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亮祿(りょうろく、?-1803年)は、正紅旗満洲に属する伊爾根覺羅氏の出身で、嘉慶年間の武官である。最終的に雲南開化鎮総兵官に昇進した。

生涯

若い頃に軽車都尉の世職を襲い、密雲協領を務めた。嘉慶帝即位後は参将として河南に派遣され、署理游撃を兼任した。1798年、白蓮教の乱が河南に波及すると、巡撫の呉熊光は盧氏に駐屯していたが、兵力の大半は他地域へ派遣されていた。これに乗じて宝豊・郟県の教徒が蜂起し、汝州を略奪した。布政使の馬慧裕が軍事に疎かったため、亮祿は速戦即決を主張した。彼はまず京師から援軍が到着間近であると偽って知らせ、八旗の大纛を掲げて軍馬を駆り立てた。馬のいななきと地響きは数里先まで響き渡り、反乱軍は大いに動揺した。亮祿はその隙を突いて夜襲を敢行し、反乱軍の営寨を焼き払ってこれを撃破し、首領の李岳らを捕らえた。戦勝の報が北京に届くと、嘉慶帝は大いに喜び、ただちに亮祿を副将に昇進させた。その後、雲南開化鎮総兵にまで昇進した。1803年に死去すると、嘉慶帝はその死を深く惜しんだという[1]。

脚注

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