持盛の初見としては、永享8年(1436年)に仁科神明宮式年造営を主催したものがある[1]。康正2年(1456年)にも式年造営を行っており[2]、歴代仁科氏当主のうち二度にわたり遷宮を行った人物は持盛と、室町初期の仁科氏当主・盛房のみである。
永享12年(1440年)、結城氏が足利持氏の遺子を擁して挙兵し幕府軍と戦った結城合戦では、幕府方として信濃守護・小笠原政康が大勢の信濃国人を率いて出陣しているが[3]、持盛は参陣していない。
室町幕府奉行人・蜷川親元が著した「親元日記」寛正6年(1465年)5月19日の条には、幕府役人の野依主計が仁科持盛に対して下した奉書が記録されている。
この奉書は、仁科氏の本拠・天正寺館や仁科神明宮から程近い安曇郡矢原荘池田の堀内を領していた堀内七郎が、叔父の堀内若狭入道によって所領を押領され浪人となっているので、若狭入道に対して、七郎に領土を還付させるよう持盛に命じたものである。
仁科氏は、安曇郡内や筑摩郡北部に分かれた分家や被官(飯森氏、沢渡氏、堀内氏等)の半独立性を容認しており、庶流に対する強い介入権・支配権を保持していなかったと考えられている[4]。このために、持盛が独自に被官に対する検断を行わず、その結果わざわざ幕府より領土紛争を裁くよう命令されるまでに至ったと思われる。
持盛の子、盛実は北沢を称して、北沢氏の祖になったとされるが、史実かは不明。