文明8年(1476年)、盛直は家臣の八町盛安・野口兼久らと共に仁科神明宮の遷宮を執り行った。この遷宮は、永和2年/天授2年(1376年)に仁科盛国が主催したものが確認できる最古の記録であり、以降盛房・盛豊父子、持盛と継承されてきた歴史的な行事である[1]。
この頃、信濃国は守護・小笠原氏の内訌や村上氏の軍事行動などで混乱が深まっており、各地で領域権力化した国人の争いが繰り広げられていた。
小笠原氏の内乱は、国衆の軍事行動も誘発し、諏訪継満が伊那小笠原政貞を支援して府中小笠原長朝と敵対している。
盛直は長朝と対立関係にあり、反小笠原の兵を起こしたが、文明12年(1480年)8月14日、穂高川の戦いで小笠原軍に敗れた[2]。9月20日、盛直や西牧満兼は山家孫三郎と結び、長朝に叛旗を翻した。しかし孫三郎はその日のうちに討たれてしまう[3]。
10月には西牧満兼が居館を焼き討ちされるなど、盛直ら国人方の苦戦は続いた。
長享元年(1487年)の足利義尚による六角高頼討伐では、義尚に従い近江国に出陣したとされる。
しかし仁科氏の屋台骨が崩れることはなく、明応5年(1496年)には仁科明盛が神明宮遷宮を執り行っていることから、この時期までに隠居したと思われる。
文亀2年(1502年)には曹洞宗大澤寺を開基し、祖奝(そちょう、素奝とも)を以て開山した[4]。