日岐丸山氏は、中世から日岐の地を領した氏族で、藤原姓丸山氏に仁科一族の人物が養子入りしたことで仁科氏一門となり[1]、その影響下に置かれていった。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡、次いで織田信長・信忠父子も本能寺の変で横死すると、旧武田領の信濃は大混乱に陥る(天正壬午の乱)。この混乱期に乗じて、徳川家康の配下となった小笠原貞慶は、筑摩郡府中に入り、約30年ぶりに府中小笠原氏の本領を回復し、自身に帰順しない安曇・筑摩北部の国衆や木曽氏に攻撃を仕掛け始める。
日岐盛直は上杉景勝に帰属していたため、貞慶による討伐対象となり、早くも天正10年8月には小笠原方が大規模な日岐攻撃を行う(日岐城の戦い)。
盛直は、弟の日岐盛武とともに采配を振るい、日岐攻めの緒戦として塔原口に押し寄せ、貞慶家臣の穂刈監物や岩波氏らを負傷させる[2]。しかし塔原幸貞・犬甘久知らに「西口」を攻撃されて被害を被った[3]。
日岐方と小笠原方は激戦を展開し、9月4日には上杉景勝が盛直に対して池田・滝沢・荻原・細野・松川・小塩、在城衆の耳塚元直(仁科氏族)に対し小宮・岩垂・野口を宛行い、士気を鼓舞した[4]。
9月7日には、日岐を攻め切れない情勢を見て、遂に貞慶自らが出馬に踏み切る。これを見た盛直方は、小笠原本陣の襲撃に踏み切り、貞慶が登波離橋に到達したところを五十騎余りで奇襲。しかし、貞慶軍の岩岡某・古厩盛勝らの反撃に遭って、多くの死傷者を出しながら犀川を渡って退却し散り散りに逃れた。
9月上旬には日岐城が攻略されたが、盛直は未だ日岐大城などを保って小笠原方に対抗したとみられ、同年12月には上杉景勝より所領安堵を約束されている[5]。
また、天正11年(1583年)1月には潮神明宮に神田を寄進し、神官の宮下彦左衛門尉某に対して社務を務めるよう指示した[6]。その後、貞慶との抗争は膠着状態となるが、同年8月7日、味方だったとみられる弟・盛武や穂高内膳佐盛数(仁科氏族)が貞慶に起請文を提示された上で小笠原方に臣従する[7]。11日には盛武は日岐遺跡を宛がわれており、日岐盛直の勢力がすでに日岐一円支配から退潮していたことを物語る。
さらに同月中には、日岐大城の在城衆が上杉に逆心したことで、盛直は城を退去せざるを得ず、これによって本領を失うこととなった。盛直が上杉に逆心せず城を退去したことを景勝は賞賛し、盛直を春日山城に迎えて、日岐郷に対する議定を行うことを約束している[8]。
天正12年(1584年)1月6日には、松田織部佐(盛直)として、更級郡に在陣し、上杉景勝より軍功を励まされている[9]。このころまでには、八幡(現・千曲市)の松田氏に養子入りしていた。
同年6月27日、景勝より八幡神明宮領・松田氏領を与えられ正式に松田氏を相続、さらに息子の仁科孫三郎は仁科家惣領職を認められ、盛信以降断絶していた仁科家を再興することとなった[10]。
盛直や孫三郎らは、その後も上杉家に仕え、米沢藩への転封にも従い、江戸時代には米沢藩士となり存続した。