今村勤三
日本の政治家 (1851-1924)
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生涯
再設置運動を主導し、「奈良県の父」と称される[2]今村勤三は、嘉永5年(1852年)に代々東安堵村(現在の安堵町東安堵)の庄屋を務めた今村家に生まれた[3]。叔父である今村文吾は私塾サロンの晩翠堂を設立し、文吾からの要請を受けた伴林光平が和歌や国学の指導を行っていた。これがきっかけで和歌を詠む「安堵社中」が成立している[4]。幼少時代の勤三も伴林や安堵社中の面々の影響を受けたと考えられている[5]。なお、今村文吾が過激な尊王攘夷運動家であったという俗説が広がっているが、生家の資料からはそれを読み取れず、後世の創作であるとみられている[6]。
勤三が11歳の時の1863年8月、天誅組の乱が発生し、安堵社中の伴林光平、北畠治房、三枝蓊らが天誅組に参加している[7]。北畠治房は後に司法省に出仕して出世を果たし[8]、勤三の奈良県再設置運動の後援者となっている。
1868年に、最初の奈良県が成立すると、幕府領であった東安堵村は奈良県に属することになった[9]。1871年11月には父親の専次郎が病死したため東安堵村の庄屋を務めるようになる。この年の7月には大和一国を管轄する奈良県が成立、1872年(明治5年)5月に大区小区制が実施され、勤三は東安堵村の区長に就任している。
1876年(明治9年)4月、奈良県は堺県に合併[10]、1881年(明治14年)2月には堺県が大阪府に合併された[11]。勤三は堺県会議員、大阪府会議員副議長を歴任している[12][13]。
府の地方税の過重を憂い、奈良県の再置運動に私財を投じた。運動の継続によって傾いた家政の立て直しのため、勤三は運動から脱退して愛媛県へと移住し鉄道の敷設などに従事した。1887年(明治20年)11月に奈良県の独立が認可され、奈良県議会議員選挙に当選、初代奈良県会議長に就任した。1888年(明治21年)には四国・讃岐鉄道会社の社長に就任し、1889年(明治22年)に辞任した。
