奈良県再設置運動
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明治新政府と大和国
江戸時代の大和国は、郡山藩や高取藩などの諸藩の領地や幕府領に旗本領、寺社朱印地などから成り立っていた[1]。
慶応3年(1867年)10月の大政奉還、12月の王政復古の大号令によって明治新政府が成立した。それまで大和国の各藩は、代々幕府に忠誠を誓っていた郡山藩や軍事力の低さから迂闊な行動をとれなかった小藩など、幕府側にも朝廷側にもつかない曖昧な態度を取る藩が多数を占めていた。新政府が成立したことでこれらの藩は朝廷側に従うようになっていった[2]。慶応4年(1868年)1月3日には新政府軍と旧幕府軍との間で鳥羽伏見の戦いが勃発し新政府軍が勝利を収めている[3]。
戦後、新政府は大和国を掌握するための行動を開始、1月11日に侍従の鷲尾隆聚が奈良奉行の小俣景徳に新政府側につくように要請、16日には軍事参謀の烏丸光徳が薩摩藩兵と共に大和に入り小俣景徳を崇徳寺に蟄居させた[1][3]。興福寺に対しては、春日神社領や奈良奉行所所轄地の事務代行を命じている。その後、五條代官所を接収して大和の旧幕府領を手中に収めた[3]。
21日に司法と行政を担当する機関である大和鎮台(2月1日に大和国鎮撫総督府と改称)が設置され、久我通久が長官を務めることになった[1][3]。2月7日に久我が大和に入り、興福寺が担当していた春日神社領、旧幕府領の管理を引き継いだ[4]。
最初の奈良県の成立
慶応4年(1868年)5月19日、大和国鎮撫総督府を廃止して旧幕府領、旧旗本領、寺社朱印地を管轄する奈良県が設置、春日仲襄が知県事に任命された。奈良県という名の由来は、東大寺や興福寺の門前町で、幕府の奉行所が置かれていた「奈良町」からとられたものである[5]。7月29日に奈良県は奈良府と改称され、翌年の明治2年(1869年)7月12日に再び奈良県に戻されている[5]。この時点の奈良県は小規模なもので郡山藩などの諸藩と併存する状況であった[1]。
奈良県の成立と前後して、慶応4年(1868年)5月2日に大阪府、6月に河内国と和泉国を管轄する堺県が成立している[6]。明治3年(1870年)2月27日には奈良県の宇智郡と吉野郡、堺県の錦部郡と石川郡を合わせて五條県が成立、その後、紀伊国の一部や十津川郷を吸収している[7]。
廃藩置県、大和一国の奈良県の成立
戊辰戦争は明治2年(1869年)5月18日に終結した。新政府は藩の統制を進め、6月17日から24日にかけて全国の各藩が土地と人民を新政府に返還する版籍奉還が行われた[8]。明治4年(1871年)7月に廃藩置県が行われ、郡山藩、高取藩、小泉藩、櫛羅藩、芝村藩、柳生藩、柳本藩、田原本藩はそれぞれ県を名乗るようになった。11月22日、第一次府県統合計画によって、奈良県と五條県、県になったばかりの諸藩が合併され、大和国一国を管轄する奈良県が成立した[1]。
合併される奈良県
堺県への合併
1876年(明治9年)4月18日、第二次府県統合により奈良県は堺県に合併され、堺県は河内・和泉・大和の3国を管轄することとなった。県令には、堺県知事を務めてきた税所篤が引き続き就任した[9]。税所にとって奈良県の合併は寝耳に水だったようで、大久保利通に宛てた書簡に驚愕千万、迷惑とまで書いている[10][11]。
県庁所在地としての地位を失った奈良のまちは、役所を訪れる宿泊客の減少などから活気を失い、町家の取り壊しが見られるほどに衰退した[12]。
当時、奈良町の人々の間からは県再設置を求める声も上がったが、この段階で運動が本格化することはなかった。この要因として『大和美事善行録』は、県令の税所篤が県内各国の地域性に配慮した政策を展開したことで地域間の利害対立が表面化することはなかったとしている[13]。また、1880年(明治11年)6月に堺県会が開かれ、予算の使い道が議論されたものの、翌年には大阪府に合併されたためこれが最初で最後の議会であったことも対立が表面化しなかった要因の一つだとみられている[14]。
大阪府への合併
1881年(明治14年)2月7日、堺県は大阪府に合併された。 直前の1月31日に行われた元老院会議において、合併の理由として挙げられたのは大阪府の財政再建であった。当時の大阪府は管轄区域が狭隘な一方で、河川や橋梁が多く、その維持管理費が多大な負担となっていた。この財政難を解消するため、広大な管轄地を持つ堺県を合併し、地方税収入の増収を図ることが決定されたのである。 このように、この合併は多分に大阪府側の便宜を優先したものであり、旧堺県に編入されていた大和国の情勢や利便性が顧みられることはなかった[15]。
再設置運動に関わった人物
今村勤三

今村勤三は、嘉永5年(1852年)に代々東安堵村(現在の安堵町東安堵)の庄屋を務めた今村家に生まれた[16]。幼少時代には叔父である今村文吾が設立した私塾サロンの晩翠堂で、後に再設置運動の後援者となる北畠治房と交流している[17]
1871年11月には父親の専次郎が病死したため東安堵村の庄屋を務めるようになる。この年の7月には大和一国を管轄する奈良県が成立、1872年(明治5年)5月に大区小区制が実施され、勤三は東安堵村の区長に就任している。奈良県が堺県、大阪府に合併される中、勤三は堺県会議員、大阪府会議員副議長を歴任している[18][19]。
奈良県再設置運動では主導者の一人となり、奈良と東京を往復して政府有力者への請願、建白を重ねている。運動にかかる費用で家政が傾いたため、途中で運動を離脱して愛媛へと移住、鉄道の敷設などに従事して立て直しを図った[20]。明治20年に奈良県の再設置が実現すると、奈良県議会議員に立候補し当選、初代議長を務めた[21]。
その後、1890年には第一回衆議院選挙に当選して立憲改進党で活動している。政治から身を引いた後は実業家として活動、奈良鉄道を経営して現在のJR奈良線、関西線、桜井線を敷設している。また財政難に苦しんでいた郡山紡績(現在のユニチカに合併済)の再建、奈良県最初の日刊新聞である「養徳新聞」の発行など奈良の発展に尽力した[22]。
恒岡直史

恒岡直史は、1840年(天保11年)に芝村藩士の恒岡直允の長男として生まれた。1858年(安政5年)、中小姓として芝村藩に出仕し、文久元年(1861年)に家督を継承。幕末期には大坂警衛への出張や、天誅組の乱の鎮圧に従事した。 明治維新後は藩政改革によって、参政を経て権大参事、大参事といった藩の要職を歴任。廃藩置県により芝村県が奈良県に合併されると、引き続き県庁に出仕した。しかし、1876年(明治9年)に奈良県が堺県へ合併されたのを機に官職を辞し、帰郷した[23]。
1880年(明治13年)、堺県議会議員選挙に当選し、同県会の議長に就任した。翌1881年(明治14年)、堺県が大阪府に合併されると大阪府会議員となり、府会の副議長、さらにその翌年には議長に選出された。 しかし、府議会の運営を通じて、予算配分における大和国への不利益や地域間格差を痛感、奈良県再設置運動を企図する契機となった[23]。
奈良県再設置運動では主導者の一人となった。二度目の元老院への建白では、差出人として「恒岡直史他四十九名」とあり、それまでの今村勤三に代わって前面に名前が出されている[24]。
奈良県再設置後は、大阪鉄道の副社長を務めた後、奈良県県会議長となった。その他、銀行業や石炭開発業にも手を出している[25]。
中山平八郎

中山平八郎は、弘化2年(1845年)、山辺郡長柄村の飯田家に生まれた。谷三山門弟の上田淇亭のもとで学び、淇亭からはやがて仁勇の人になるだろうと高い評価を得ていた。明治6年(1873年)に資産家の田村中山家の養嗣子となり後を継ぐ。小区の副区長や出納役を歴任したのち、明治14年(1881年)に大阪府議会議員に当選している[26]。
奈良県再設置運動では、岡本友三郎と共に添上、添下、山辺各郡の代表となって運動をけん引した。明治20年に再設置運動の代表らが松方正義に面会した際、機嫌を損ねた松方に葉巻草入れを投げつけられたが、中山は臆せず自分の立場を主張し松方を納得させて再設置の実現につなげたとの逸話が残る[27]。
奈良県再設置後は、奈良県県会議員となり県政の中心を担った。明治24年には県会議長に就任するものの、役員人事をめぐって議会が二分した争い、烏鷺の戦いの収拾をつけられずに議会の解散にまで及ぶという不祥事を起こしている。明治26年には衆議院議員選挙に立候補し当選、国政に参画している[28]。中山は山辺郡の独立の実現や、文化財保護の施策、丹波市銀行の創設、初瀬鉄道の敷設などの功績を残した[29][30]。
再設置運動の開始
大阪側と奈良側の軋轢
1881年(明治14年)の合併により、大阪府は摂津・河内・和泉・大和の4国を管轄することとなったが、この広域化は地域間の利害対立を招きやすい構造を内包していた[31]。摂津、河内、和泉の河川や港湾の改修に重点が置かれ、大和の治水、産業の振興、教育、道路の改修はなおざりにされる傾向にあった[32]。1880年代の松方デフレで府県財政が危機に陥ったことで、より一層地域間の不均衡を拡大させたことも背景にあった[33]。また、大阪都市部と大和含む郡部の対立もみられ、1883年には河内と和泉も分県運動を展開している[18]。
合併直後の府会では、早くも財源の使途を巡る対立が表面化している。例えば、同年6月の通常府会における教育費審議では、師範学校分校の予算が争点となった。旧堺県時代、大和国には奈良・郡山・芝村・平谷の4カ所に分校が設置されていたが、大阪府は奈良を除く3校の予算削減を提示。これに対し、大和選出の議員と他国選出の議員との間で激しい論戦が展開された。 大和側の議員は、地理的条件(遠隔地・難所)を理由に「せめて十津川の平谷分校は存続させるべきだ」と主張したが、他国議員の賛同を得ることはできなかった。最終的に吉野への分校新設は認められたものの、当初の3分校は計画通り廃止されることとなった[31]。
明治15年11月29日に内務省に提出した最初の請願書「大和国置県請願書」には再設置を求める理由として、次の六点を挙げている。この理由は以後の再設置活動にも受け継がれていった[34]。
- 大阪に属することは大和にとって財政的に不利であり失うものが大きいこと。
- 大和と大阪では、風土や人情が異なるため互いに相いれないこと。
- 大和の山間部は道路や水路などのインフラ整備が重要なのに大阪が関心を示さないこと。
- 大和と大阪では知性が異なり経済的なつながりが希薄であること。
- 府会でも大和と大阪の議員の間での対立構造がみられること。
- 明治14年度の地方税の使途の大部分が大和に割り当てられていないこと。
再設置運動の開始

これらの要因から、大和出身の大阪府議員であった恒岡直史、今村勤三、中山平八郎らは奈良県の復活を考えるようになった。また、当時の日本では自由民権運動が高まりを見せており、大和でも恒岡や芳村芳太郎が中心となって運動を進めていた[35]。1881年(明治14年)7月24日に大和高田の専立寺で恒岡らが大和全国自由懇親会を開催、豪商など300人ほどを集めている。恒岡や今村はこの大和の自由民権運動の中で奈良県再設置の同志を集めた[35]。
1881年(明治14年)12月25日、田原本町の土橋亭で再設置に向けた第一回各郡有志会が開催された。この集会では、大和を5つのブロックに分割してそれぞれに請願手続調査委員を選んだ。この委員には、中山や恒岡、今村の他に岡本友三郎、梅島鼎、服部蓊、山田新吾、芳村芳太郎、大北作次郎、磯田清平が名を連ねている。また、再設置運動にかかる資金はこれら調査委員を負担することを決議、調査委員らが中心となって各ブロックで同志を募ることとした[35]。
各委員は賛同者を集めるために大和各地での遊説を続けた。民衆の反応は賛成一辺倒というわけでなく、再設置するにしても県庁を奈良市ではなく奈良盆地の中央にしてほしいという意見を持つ者もいた。この県庁の位置問題は一時期運動分裂の危機も招いている[36]。
二度の請願
一度目の請願

1882年(明治15年)11月上旬に土橋亭で何度か会合を開催、旅費や上京する請願委員の選定、請願書の作成などを進めた。この請願書の作成には、大審院判事となっていた北畠治房が協力している[37]。

1882年(明治15年)11月、今村勤三、服部蓊、中村雅真(恒岡の代理)が請願書を提出するために上京した。まず北畠治房を訪れ助言を受け、29日に内務省に「大和国置県請願書」と「大和国置県請願理由書」を提出した[33]。この請願書には15郡244町737村総代33名が連署しており、大和にあった約1600町村の内の60%以上が運動に参加したことになる[38][33]。
請願書提出後、しばらくしても音沙汰がなかったため、今村らは12月4日に内務省に伺書を提出した[33]。7日に内務省から呼び出され出頭したところ、本請願については大阪府庁から回答するためいったん帰国して待つようにとの返答があった[33]。この返答に不満を抱いた一行は、内務卿の山田顕義への面会を求めたが謝絶されている[33]。
諦められない一行は内務大輔の土方久元、内務省地理局長の桜井勉、元老院議員の税所篤、ついには山田顕義に面会して再設置を訴えた[18][33]。しかし、各官僚からの回答はいずれも厳しいものであった。土方や山田は「軍備拡張や国庫の状況から、地方税の増加を招く分県は認められない」と財政上の理由を挙げ、税所は「すでに大阪府庁に回答済みであり、再考の余地はない」として、速やかな帰宅と次回の準備を促すにとどまった[18]。桜井からは県庁の位置をどうするかをまとめることが先決であると助言を受けている[18][39]。結局12月25日に府知事の建野郷三から大和の恒岡に請願が却下されたことが伝えられ一度目の請願は失敗に終わった[33]。
二度目の請願
一度目の請願が却下された後、1883年(明治16年)1月5日、土橋亭に恒岡直史、岡本友三郎らが各郡代表らが集合し、却下の理由の報告と前年12月に発布された請願規則(「太政官布告」第五十八号)に基づいて三条実美太政官に請願を行うことを協議している。そして恒岡と今村が中心となって請願書を起草、大和の各地で同意を求める請願運動が展開された[33]。
前回の請願とは異なり、今回の請願では民衆の署名を集めることとした。最終的に請願書には2万1718人が連署しており、この数は戸数では22%、人口では4.6%に相当する数字であった[38]。署名の人数は地域ごとにばらつきがみられ、山辺郡は5000人、添上郡は3500人、平群郡は3000人ほどの署名があったが、宇陀郡や忍海郡などは100名にも満たない数であった。県庁予定地の奈良市に近い郡ほど署名率が高い傾向があり、県庁所在地に対する南部の反発があったことがうかがえる[40]。
地域差がありながらも運動がここまで盛り上がった背景には、富山県、佐賀県、宮崎県が再設置運動により復活したことがある[33]。請願書には請願の理由として、一度目の請願時の理由に加えて、奈良県廃止後は大和で計画していた道路などの整備事業が中止となっていることを挙げている[41]。
この頃、元老院議官の槇村正直が地方巡察使として大和を訪れ、請願を却下されて沈んでいた大和の有志らが他県の再設置を知って再び奮起している様子を三条実美に報告している[42]。

8月15日に、今村とそれに同行した片山直太朗が上京、三条実美に「大和一国ヲ大阪府ノ管下ヨリ分テ別ニ一県ヲ立ルヲ請フ願書」を提出した[41]。
請願書の提出後、参議の山縣有朋邸を何度か尋ねたものの面会を果たすことはできなかった。そんな中、17日には片山が突然帰国している。この帰国には、片山がこのままの方法では目的を達成できないと考えたことや、二人の間の県庁の位置問題の対立が要因であった[43]。
残された今村は一人で各方面への陳情を継続した。山田顕義と山縣有朋の両参議に賛成することが再設置への近道だとしていた今村は二人の邸宅を何度も訪問した。山田邸には6回訪れ一度も面会を許されず、山縣邸には7度目でようやく面会を許された。山縣はこの面会ではじめて奈良県の再設置運動を知り、請願にかなりの関心を示している[44]。
山縣との面会後も、今村は土方久元、井上馨、芳川顕正などの政府の有力者の邸宅に陳情に訪れ続けた。9月10日になってようやく太政官への出頭が命じられたが、その返答は「規則第十三条ニ依リ建白ニ属スベキモノナレバ、元老院ニ差出スベキ旨口達ヲモッテ却下」とまたも請願の却下という結果であった。今村は係官に却下の理由、書記官への面会を求めたが取り付く島もなかった[45]。
元老院への建白
元老院への建白へ
二度目の請願が却下された後、今村は東京にとどまり現地の知り合いに相談、元老院への建白をすべきとの助言を受けた。これを受け大和の同志に元老院への建白の意向を尋ねる書簡を出している。大和では9月22日に土橋亭での会合が持たれ、建白への準備を進めることとした。大和で用意された建白書は暴風雨によって到着が遅れ、10月15日になって東京の今村のもとに届いた。その翌日に元老院に出頭、佐野常民元老院議長宛てに建白書を提出した[46]。今村は10月末に数か月ぶりに大和へと帰国している[47]。
10月17日、大和では恒岡直史、服部蓊、中山平八郎、芳村芳太郎、中村雅真ら33人が盟約証書をまとめている。この証書には何があっても再設置を実現すること、必要な資金は各人が負担すること、何があってもこの盟約に背かないことが定められた[48]。
二度目の建白
1884年(明治17年)に入っても元老院からの音沙汰がない状態が続いた。1月7日、郡山柳町の常福寺で今村、恒岡ら24名が集まり、建白書を再提出することを決議した。その後2月から4月にかけて奈良や大阪の各地で会合を開き、上京委員や起草委員の選定、建白書は大阪府を経由しての郵送とすることなどが決められ建白への準備が進められた[24]。
元老院への建白書は5月13日付で元老院議長に提出された。この建白には恒岡や今村ら50名が連署しているが、前回と比較して連署者が減少しており、運動が衰退してきていることを読み取れる。結局この建白も再設置へとつながることはなかった[48]。
衰退する運動
休眠状態となる運動
これまでの請願活動には多額の費用を要した。松方デフレも相まってこの負担を苦痛とした有志は一人また一人と運動から離脱していき、奈良県再設置運動は休眠状態となった[48][24]。「奈良県は 若木の柿に さも似たり なるなる言ふて いつかなるやら」という運動の衰退を揶揄した狂歌も読まれる有様であった[49]。今村勤三も長引く請願によって傾いた今村家の家政を立て直すため、1885年(明治18年)12月に愛媛に移住して鉄道の敷設などに従事している[50]。
台風による水害と運動の再開
1885年(明治18年)7月1日、近畿地方を台風が襲い、明治十八年の淀川洪水として知られる未曾有の大水害が発生した。大和国においても河川の決壊による床上浸水や山崩れなど甚大な被害を記録した。 しかし、大阪府が投じた巨額の復旧費用は摂津・河内・和泉の3国に集中し、大和国への配分は限定的なものにとどまった。この格差を目の当たりにしたことで、沈滞していた奈良県再設置運動が再び興ることとなった[51]。
1886年(明治19年)4月、有志らは御所の芦高楼で会合を開き、朝日新聞と内外新報に同志を募る広告を載せることとした。4月11日の土橋亭での会合では、建白書提出のために委員二人を上京させることを決議している。5月6日には興福寺南円堂、11日と28日には土橋亭で会合が開かれ、恒岡ともう一人を上京委員とすること、出立日は6月10日とすることが決められた[52]。
この運動に参加した者は限られており、28日の会合には13人しか集まらなかった。中村雅真の回想によれば、請願書の連署には今村勤三、恒岡直史、服部蓊、中村雅真の4名のみという寂しいものであったという[52]。この運動に関する資料は乏しく、どこに請願するものなのか、実際に実行されたのかどうかなどは分かっていないが、少なくともこの運動で奈良県の再設置に至ることはなかった[53]。
再設置の決定
地価修正を求める運動
1887年(明治20年)、全国的な測量に伴い地価の改正が行われた。 同一の大阪府管内でありながら、摂津・河内・和泉の3国では地価が100円につき5円の割合(5%)で引き下げられたのに対し、大和国は現状維持とされた。地価の引き下げは直接的に地租(土地税)の軽減につながるため、この格差は大和国の住民に強い不公平感を与え、地価修正を求める運動が展開されることとなった[53]。この運動は主唱者が費用を負担していた再設置運動とは異なり、土地の所有者が地価に応じた割合で費用を負担するというものであった[53]。
松方正義との面会

大和を代表する者として、恒岡直史、片山太次郎、中山平八郎、堀内忠司、磯田清平ら5名が選任され、9月29日に請願のため上京した[53]。当時の東京は不平等条約の改正をめぐる反政府運動が盛んになっており、政府は集会や請願のための大臣面会などを厳しく制限していた。そんな中で一行は地価修正の請願活動を行うこととなった[54]。
税所篤の斡旋があったのか、一行は大蔵大臣の松方正義と面会し、地価修正を訴えた。松方は「大隈重信が大蔵卿だった際の地租軽減から大和が漏れたため、今さら対応できない」と弁明したが、一行は大隈卿の地租改正では大和も軽減を受けていた事実を指摘して反論、「断るために適当を言っているのではないか」と指摘した[55]。
一行の指摘に激昂した松方が「余はいやしくも、大蔵大臣であるぞ!」と威圧したのに対し、中山平八郎は一歩も引かず、非礼を詫びつつも「大和を救いたい一心ゆえの言動である」と熱弁を振るった。中山は、今回の地価改正の重要性を訴え、「閣下の裁量によって改正が叶わぬならば、もはや故郷の土を踏むことはできない」と不退転の決意で懇願した[56]。この懇願に対して松方は、いまさら大和の地価改正はできないが、このままでは大和に帰れないだろうから別の土産を用意すると暗に奈良県の再設置を示唆した[56]。
奈良県再設置の決定

10月6日、一行は松方の指示で総理大臣の伊藤博文のもとに出頭、伊藤とそこに同席した山縣有朋から奈良県再設置の内諾を得た[57][58]。10月24日に山縣は「奈良県設置ノ件」の議案を閣議に提出、29日の元老院会議で賛成多数で可決された[58]。11月4日付の勅令第59号によって奈良県再設置が正式に認可、奈良県知事には税所篤が任命された。人事は書記官に平山靖彦と大塚謙三郎、収税長に磯貝信行が任命されている[59]。首脳陣が決定すると内務省内に奈良県出張所が開設、奈良県再設置の準備が進められた[60]。
奈良県再設置
大阪府議会では大和の地租改正運動での欠席が多かったことから恒岡議長の辞職勧告が決議され議長が交代するなど混乱がみられていた。この頃には大阪でも奈良県再設置のうわさが広がり始めており、8日には『大阪日報』が奈良県再設置を予想する記事を出している。11日付の新聞には「奈良県再設置」を正式に報じている[61]。
再設置が正式に決定すると、大阪府庁で書類などの引継ぎ作業が行われ、大阪府の予算の約3分の1が奈良県に引き継がれることとなった[62]。
新知事の大和入りは当初11月17日に予定されていたが、延期が重なり実際の大和入りは11月30日深夜となった。深夜10時過ぎに県境近くの国分に到着、恒岡や中村ら旧府会議員らが出迎え、県境を越えて12時ごろに龍田神社前の旅館に達した。龍田神社では140人あまりが知事らを出迎えている。12月1日午前2時に奈良登大路に用意された官舎に入った[63]。
開庁式

12月1日、奈良県開庁式が挙行された。新庁舎には奈良公園内の旧寧楽書院が充てられた。午前10時に県職員と招待者ら約200人が参集、10時20分に税所知事が着席し、平山書記官が知事の祝辞を朗読した[64]。
明治二十年十二月一日を期して、ここに本県の会長式を行うにあたり、皆さんとともに県づくりにつくしましょう。 それには、県全体の一致団結が必要であります。気を緩めないで自立の努力をしましょう。さらに質素・倹約をして、後日の繁栄を願いましょう。 — 税所篤の祝辞
この呼びかけを受け、有志総代の大森吉兵衛と中山平八郎が答辞を読んだ。正午からは興福寺の寺務所で懇親会が開かれた。なお、新知事歓迎行事も計画されており、花火の打ち上げなどが行われる予定であったが、平日の午後に派手な行事を行って官吏服務違反をしてはならないと声が上がったことで中止となっている[65]。
初の奈良県県会
1887年(明治20年)12月17日、県内各郡において初の県会議員選挙が実施された。当時の選挙法では、有権者は「地租5円以上を納める25歳以上の男子」に限定されており、県内の有権者数は約2万人に留まった。 同月27日の当選告示を経て、翌1888年(明治21年)1月9日から3日間にわたり初の県会が開催された。議長には今村勤三、副議長には堀内忠司が選出された[66]。
特筆すべきは、初回県会の臨時議場として東大寺大仏殿が使用されたことである。これを記念して、1987年(昭和62年)の第200回県議会、および2010年(平成22年)の第300回県議会においても、大仏殿を会場とした記念議会が執り行われた[67]。

関連施設
- 安堵町歴史民俗資料館:今村勤三の生家を資料館に改装した施設。再設置運動に関する資料の他、民俗資料や伝統産業の灯心ひきに関する資料が展示されている[68]。
