令狐綯

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令狐 綯(れいこ とう、生没年不詳)は、唐代官僚政治家は子直[1][2]本貫敦煌郡效穀県。一族は早くに宜州華原県に移り住んでいたので、華原の人とも言う。

経歴

大和4年(830年)、進士に及第し、弘文館校書郎を初任とした。開成元年(836年)、左拾遺となった。開成2年(837年)、父が死去すると、令狐綯は辞職して喪に服した。喪が明けると、令狐綯はもとの官に任じられた。ほどなく左補闕・史館修撰に転じた。庫部員外郎・戸部員外郎を歴任した。会昌5年(845年)、湖州刺史として出向した[1][2]

大中2年(848年)、令狐綯は長安に召還されて考功郎中に任じられ、ほどなく知制誥をつとめた。宮中に入って翰林学士をつとめた。大中3年(849年)、中書舎人に任じられ、彭陽県男に封じられた。ほどなく御史中丞に任じられた。大中4年(850年)、戸部侍郎に転じ、判戸部司事をつとめた。この年のうちに、兵部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。吏部尚書・尚書右僕射を歴任し、涼国公に封じられた。大中13年(859年)、宰相から退任し、検校司空・同平章事・河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使として出向した[3][4]

咸通2年(861年)、令狐綯は汴州刺史・宣武軍節度使に転じた。咸通3年(862年)冬、揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知淮南節度事となった。開府儀同三司・検校司徒を加えられた[3][5]

咸通9年(868年)、徐州龐勛桂州から勝手に帰還してきた。7月、龐勛は浙江西道に到着し、長江に沿って白沙から濁河に入り、船を奪って進んだ。令狐綯は龐勛がやってきたと聞くと、使者を派遣して慰撫し、まぐさと米を供給した。都押牙の李湘が龐勛を討つよう勧めたが、令狐綯は聞き入れなかった[3][6]

この年の冬、龐勛は徐泗観察使の崔彦曽を殺して徐州に拠り、6・7万の兵を集めた。徐州には兵を養う食がなかったため、反乱軍を分遣して淮南の諸州を攻略し、滁州和州楚州寿州が相次いで陥落した。ひとり杜慆の守る泗州のみが反乱軍の攻勢に耐えて、降伏しなかった。令狐綯は徐州南面行営招討使となり、李湘に5000人を与えて泗州を救援させた。龐勛は李湘の来援を知ると、偽って降伏を願い出る手紙を令狐綯に送った。令狐綯は朝廷に奏上し、李湘には反乱軍がすでに招降に応じたと伝えた。李湘の軍は武装を解いて寝ていたところを反乱軍に襲撃され、みな生け捕りにされて徐州に送られ、蒸し肉にされて食われた[7][5]

令狐綯は軍を失ったことから、馬挙が令狐綯に代わって淮南節度使となった。咸通12年(871年)8月、令狐綯は検校司徒・太子太保に任じられ、分司東都をつとめた。咸通13年(872年)、本官のまま鳳翔尹・鳳翔隴右節度使となった[7][5]乾符2年(875年)、趙国公に封じられた[8]。のちに死去した。享年は78。太尉の位を追贈された[7][9]

家族

令狐徳棻の末裔を自称していた。

脚注

伝記資料

参考文献

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