任延皓
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経歴
術数風雲のことを生業とした。石敬瑭が太原府で後唐軍の包囲を受けたとき、劉知遠は最も信任されて要職にあり、延皓は術数によって面会を求められ、劉知遠に礼遇を加えられた。後晋の天福初年、延皓は晋陽県掾に任じられた。ほどなく劉知遠の推薦により、交城県令・文水県令を歴任した。劉知遠が太原府に駐屯すると、延皓は軍政の事務について多く発言し、ひっきりなしに出入りし、劉知遠の側近たちもみなかれをはばかった。延皓が文水県にいたとき、収奪や収賄をおこなっており、民衆が陳情を行おうとしていると延皓は察知した。延皓は先手を取って、県の官吏が民衆を集めて県の官庫を襲撃しようとしていると誣告した。劉知遠は怒って、騎兵を派遣して県民十数人を捕らえ、一族皆殺しにした。冤罪を訴える声が道筋に聞こえた[1]。
天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、延皓は殿中監に累進した。帝のお気に入りであることを恃んで、宰相すら見下す有様であった。劉崇は太原府にあって、常日頃から歯ぎしりしていた。魏王劉承訓が死去し、太原府に帰葬されるにあたって、延皓は葬地を選ぶよう命じられた。ときに山岡の僧が「魏王の葬地は不吉であり、喪が重なる恐れがあります」と劉崇にいった。乾祐元年(948年)、高祖が死去し、劉崇が僧の言を奏上すると、延皓は麟州に配流された。途中で文水県に立ち寄り、市場の民衆に瓦を投げつけられて罵られ、官吏に助けられて落命を免れた。麟州に到着すると、劉崇に派遣された人に殺され、その家の財産を没収された[1]。