甚太夫は豊臣秀長およびその養嗣子・秀保に仕え、600石を知行していた。天正19年(1591年)の秀長死去後、秀保に従ったが、文禄3年(1594年)主家が断絶したため浪人となった。その後、慶長3年(1598年)2月に豊臣秀吉に召し出され、大和・伊賀・紀伊の3国において合わせて1860石(または1866石)を与えられた。
『黄薔薇古簡集』によれば、秀保は天正19年9月26日(1591年11月12日)、甚太夫に新地行600石を与え、従前の知行地と合わせて1000石を安堵したとされる。また、慶長3年2月8日(1598年3月15日)には増田長盛代官所(紀伊国郡賀郡)において、新たに850石を与えられ、旧領大和・伊賀の1016石と合わせて1866石を安堵されたことが確認できる。文禄4年(1595年)の秀保死去後、紀州は秀吉の直轄領となり、甚太夫は本田利朝・福田牛介・池田秀氏らとともにそれぞれ所領を与えられている。