伊奈忠治

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時代 江戸時代前期
生誕 文禄元年(1592年
別名 半十郎(通称
 
伊奈忠治
時代 江戸時代前期
生誕 文禄元年(1592年
死没 承応2年6月27日1653年7月21日
別名 半十郎(通称
戒名 長光院殿東誉栄源周居士
墓所 埼玉県鴻巣市勝願寺東京都江東区正源寺
官位従五位
幕府 江戸幕府関東郡代
主君 徳川秀忠家光家綱
氏族 伊奈氏
父母 父:伊奈忠次
兄弟 忠政忠治日誉源貞忠公忠雪長直忠氏内藤正成室、宮田主馬室、向井忠宗
忠克治詣忠重、主税、松平重長室、蘆野資俊
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伊奈 忠治(いな ただはる)は、江戸時代初期の代官頭

武蔵小室藩主・伊奈忠次の次男。通称は半十郎[1]勘定方を勤めていたが、父の没後、跡を継いでいた兄・忠政元和4年(1618年)に34歳で没した。しかし嫡男・忠勝が8歳の幼少であったため、家督は忠勝が、関東代官職は27歳の忠治が継ぐこととなった。関東代官となる前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に既に七千石で赤山城を拝領していたため、兄の配下だった代官の多くが忠治の家臣となったという。

忠治は父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削に携わった。江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川小貝川の分流工事や下総国常陸国一帯の堤防工事などを担当した。なお、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つくばみらい市北山)の北東、つくばみらい市福岡[2]にある。また、合併してつくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来する。父の忠次も埼玉県北足立郡伊奈町の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となった珍しい例である。

なお、忠勝は翌年に9歳で病没し、小室藩は無嫡廃絶となるが、名跡としての伊奈氏は忠政次男の忠隆が継いでおり、忠治は傍系であった。「関東郡代」という職名の正式な設置は寛政4年(1792年)であり、当初の関東郡代は忠治からの代々に自称されたものとみなされている(「郡代を参照)。

大正4年(1915年)、従五位を追贈された[3]

川口市のイイナパーク川口(赤山歴史自然公園[4]とJR川口駅東口のキュポ・ラ1階[5]ブロンズ像が建立されている。

忠治の業績

その他

脚注

外部リンク

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