伊良子家は甲斐源氏の支流といわれ、室町時代までは秋山姓を名乗る。戦国時代の末に三河国渥美郡伊良子村(現在の愛知県田原市)に住んでいたため、伊良子姓に変更する。その後、伊良子一族は出羽国に移住して最上氏の家臣となり、伊良子宗牛・伊良子弾正ら、最上家の重臣を輩出した。道牛の父・貞之助も最上義光の六男・大山光隆の家臣となるが、後に最上家の改易に遭遇し、主君の光隆も酒井忠世の預かりとなってしまう。浪人となった貞之助は、同じく熊本藩預かりとなった義光の弟・楯岡光直を頼って熊本に向かい、細川家に仕官した。
父に従って九州に移り住んだ道牛は、当時唯一の西洋文明との接点であった長崎に近づいたこともあり、蘭学への憧憬に駆られる。貞享3年(1686年)、念願かなった道牛は長崎に赴き、慶安2年(1649年)に来日したオランダ商館医・カスパル・シャムベルゲルが広めた、「紅毛流外科」を学ぶ機会を得る。このとき、道牛は16歳(数え)であった。
その後、道牛は長崎で学んだ西洋医学と、日本に古来より伝わる東洋医学の長所を巧く融合させ、和洋折衷の独自の外科学を確立させる。
元禄14年(1701年)、山城国紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)に移住した道牛はこの地で開業したが、漢方・蘭方ともに適切な処方をしたその治療に名声が集まり、洛中洛外を始め近隣の諸国からも患者が集まったといわれている。
享保19年(1734年)1月12日(旧暦)、病を得ていた道牛は64歳でこの世を去る。墓は伏見桃山仙石谷の竜泉寺に建てられ、生前交友のあった伊藤東涯の撰文による墓碑銘が彫られていたが、明治時代に奈良鉄道敷設に伴って廃却され、現存しない。
昭和3年(1928年)、正五位を追贈された[1]。