伊藤氏
日本の氏族
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概要
伊藤家 (公爵)
伊藤家(水戸藩重臣)
伊藤家 (将棋)
伊藤家は、江戸時代の将棋家元(将棋三家)の一家。三世名人初代伊藤宗看を祖とする。
二代大橋宗古の娘婿で在野棋客との将棋で実力を示した初代宗看は宗古の跡を請けて三世名人となり、さらに大橋本家が宗古の孫の代で断絶すると実子の宗銀(後の五代大橋宗桂)を養子に送って大橋本家を存続させるなど家元制度の定着に尽力した。宗看の跡を受けた二代宗印は養子であったが棋才に恵まれ五世名人となる。二代宗印の長男の伊藤印達は六代大橋宗銀との争い将棋で有名であるが夭折し、宗印の跡は三代伊藤宗看が継いだ。
三代宗看は父や兄と同様に棋才に恵まれ、将棋技術の向上に務めると共に詰将棋の発展に力を尽くした。三代宗看の『将棋無双』とその弟で養子の初代伊藤看寿の『将棋図巧』は傑作とされている。 三代宗看の弟の宗寿が大橋本家を継ぎ八代大橋宗桂になるなど、三代伊藤宗看の時代の伊藤家は全盛期を迎えたが、三代宗看の晩年に次期名人の座を期待されていた初代看寿が早世し、三代宗看の死後に跡を継いだ四代伊藤得寿も早世するなどして、伊藤家は衰退した。伊藤家を継いだのは「菓子屋の子胤」といわれた鳥飼忠七であり、五代伊藤宗印と名乗る。さらにその跡を継いだ松田印嘉が六代伊藤宗看を名乗り、十世名人となる。宗看の没後、名人位は空位となり、幕末には御城将棋も中止となるなど伊藤家のみならず将棋界全体が衰退した。
明治時代、家元制度廃止後の将棋界の再興に尽力した一人が伊藤家当主の八代伊藤宗印であり、十一世名人を襲位したが、大橋本家の流れを汲む小野五平や大橋分家の流れを汲む大矢東吉と対立するなど、将棋界の分裂状態を解消できないまま没した。宗印の血筋は絶えたとされるが、その門人から小菅剣之助、関根金次郎がでている。
歴代当主・関連人物
- 初代伊藤宗看(1618年 - 1694年)。大橋本家当主で二世名人二代大橋宗古の娘婿。三世名人。[2]
- 二代伊藤宗印(1655年? - 1723年)。初代宗看の養子。前名は鶴田玄庵。五世名人。[4]
- 三代伊藤宗看(1706年 - 1761年)。二代宗印の子。前名は印寿。七世名人。[7][8]
- 伊藤看寿。三代宗看の養子。二代宗印の子。
- 四代伊藤得寿(1740年 - 1763年)。三代伊藤宗看の子。五段。
- 五代伊藤宗印(1728年 - 1793年)。四代得寿の養子。前名は鳥飼忠七。七段。
- 六代伊藤宗看(1768年 - 1843年)。五代宗印の養子。前名は松田印嘉。十世名人。[9]
- 七代伊藤宗寿(1784年 - 1846年)。六代宗看の養子。初代伊藤看寿の孫で伊藤寿三(二代看寿)の子。七段。
- 八代伊藤宗印(1826年 - 1893年)。七代宗寿の養子。前名は上野房次郎、伊藤印寿。十一世名人。[10]