大矢東吉
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父の笠原春圃は医師で、尾張藩に仕えていたが、晩年、武蔵国所沢に退いた。その4男として生まれる。
13歳で初段の免許をうけ、16歳で「棋聖」と称された天野宗歩と対局、全敗したことから発奮し修行し、やがて在野の棋客の一人として知られるようになる。
幕府滅亡後の明治2年(1869年)、将棋界再興を目指す八代伊藤宗印(伊藤家)と九代大橋宗与(大橋分家)の招集に応じ、『百番出版校合会』に参加。八代宗印と次期名人を巡り争うが敗れた[2]。その後も棋力は衰えず、明治10年(1877年)に東の大関七段、明治20年(1887年)には東の大関八段になったことが確認されている。
侠客はだのところがあり、豪放磊落、奇行が多かった。晩年は妻子に先立たれるなど不遇で、脳に変調をきたして没したという。