伊藤貞次
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新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身[6][8]。伊藤東蔵の長男[4][16][17]。早くに父を亡くし、一家は困窮する[3]。母の実家・渡邊家に身を寄せる[3]。農作業に精を出す[3]。
1896年、家督を相続する[4][16][17]。1897年3月、東京数学院中学全科を卒業[6][8]。鉄道局運輸課傭[6]、北海道庁事業手[2]。1899年7月、大蔵省文官普通試験に合格[13]、同年8月北海道庁鉄道書記試験に合格[6][8]。1905年7月、早稲田大学専門部法律科を卒業[4][6][10][16][18]。北海道庁、農商務省、富山県各属を歴任[16][17]。
富山、宮城、山形各県理事官を経て[9]、1921年に函館区助役となり[8]後区制廃止に依り函館市助役に就任する[16][17]。1926年、広島市助役に転じる[16][17]。1930年5月16日に広島市長に就任する[7]。
市長の任期中、1932年に宇品港は広島港と名を改め、同年太田川改修工事が、1933年に広島港修築が始められ、1934年頃から工業港建設の声が高まる[6]。都市計画、特に街路の整備舗装に力を注ぐ[19]。1934年5月15日に退任する[7][8]。全国市長会会長をつとめ、会長を辞して以後は幹事になる[2]。
職歴
人物
疑獄
『中国新聞』は「1934年2月18日、広島市土木疑獄事件を取調中の検事局は、この日錦華人絹誘致について謝礼金を受け取った疑いで市長伊藤貞次の出頭を求める」と報じた[20]。
また『中国新聞』は同年3月13日に「錦華人絹からの一万円分配問題を端緒として疑獄事件が拡大波及するにつれ、伊藤広島市長に対する刑事上の嫌疑は太田川改修同盟会の二千円行方不明問題および藤田一郎氏からの一千円借用問題の二点に対しても向けられるにいたり、十二日も病床へ召喚命令が発せられるなど身辺急をつげるにいたったので、予算市会において倒れるまで市長としての責務を果すとて悲壮な決意を固めていた伊藤市長も松坂市会議長など市会幹部および黒河収入役、中川文書課長らとも相談の上、ついに辞意を決し、十二日午後八時黒河収入役に辞表を託して松坂市会議長の手元に提出した」と報じた[21]。
人柄
温厚円満な人格である[19]。趣味は読書、野球[1]。宗教は禅宗[9][10][11][16][17]。住所は広島県広島市水主町[1][4][10][11][12]、西平塚町[16][17]、大連市長春台[16][17]。