藤田一郎 (実業家)
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広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれた[14][注 2]。藤田次助の二男[4][13][15][16]。1900年[3]、高等小学校を卒業[14]。
郷里で百姓のまま埋もれたくなかったため[14]、広島市で請負業をやっていた母方のおじに当たる森信正市の店で小僧として働く[17]。土木建築業の見習いの傍ら夜学に通い、建築や簿記を学ぶ[3]。17歳の時、アメリカへの密航を企てたが、失敗に終わり再び森信方に連れ戻された[14]。
19歳で独立したが、未成年なので請負事業に携わることができず、将来斯業で立つ準備として材木商を選んで、広島市大手町九丁目鷹野橋下流の河岸に開店した[17]。
1910年12月、24歳の頃、弟の定市とともに広島市台屋町[注 3]で土木建築請負業を始めた[19]。分家して一家を創立する[13][注 4]。
1916年、小倉の陸軍第十二師団の兵舎の受注を果たした[19]。正式に「藤田組」を名乗り、一郎が組長に、弟の定市が副組長になった[19]。1937年、「株式会社広島藤田組」設立、取締役社長に就任[19]。1944年、一郎は社長を辞任、会長に就任、弟の定市が社長に就任[19][21]。
1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下の時、一郎は佐伯郡の別荘にいたので、難を免れた[14]。広島商工会議所会頭、日本放送協会中国支部理事長などを歴任[2]。
1949年9月19日に死去[3]。西本願寺広島別院に藤田組社葬を以て藤田の霊を送られる[3]。墓は青山墓地にある[3]。