住吉廣行 (絵師)
1755-1811, 江戸時代中期~後期の住吉派の絵師
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伝記
住吉派4代住吉廣守の妾腹の3男とされるが、実際は廣守の高弟・板谷桂舟(慶舟)の長男とも言われる[4]。住吉廣守の養子となって住吉家を継ぎ、住吉派を率いる5代当主として、1781年(天明元年)に江戸幕府の御用絵師となった[2][5]。1786年(天明6年)10代将軍徳川家治の養女・種姫が紀州藩主・徳川治宝に輿入れする際、絵巻物類を制作した。寛政の内裏新造に際しては、制作途中に亡くなった狩野典信に代わり賢聖障子を制作した[6]。
また、老中松平定信の命により柴野栗山や屋代弘賢と山城、大和の古社寺の宝物調査にあたって、1792年(寛政4年)に『寺社宝物展閲目録』(東京国立博物館蔵)をまとめたほか[7][8][9]、古画の鑑定や模写も数多く行なった[1][6]。1794年(寛政6年)尾張藩主・徳川宗睦の命で『東照宮縁起絵巻』の模写を完成させている(名古屋東照宮蔵)。亡くなる年には、朝鮮通信使に贈る屏風絵を制作したとする資料もある[10]。
1811年(文化8年)没。戒名は隆善院廣行達道居士。住吉家は長男廣尚、次いで次男弘貫が継承した。廣行の戒名も刻まれた住吉家代々の墓は、上野の護国院から多磨霊園に改装され、現存している[11]。
弟子に、伊予松山藩御用絵師の遠藤廣實など。
代表作
| 作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・落款 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 聖賢図屏風 | 絹本著食 | 八曲二双 | 165.7x497.5(各) | 東京国立博物館 | 18世紀 | 現在、京都御所に所蔵されている原本の副本か。東博収蔵以前は、台帳から大正6年(1917年)まで主殿寮に伝来していたことがわかる[12]。 | |
| 和歌三神図 | 絹本著色 | 3幅対 | 100.0x38.0(各) | 東京国立博物館 | 18世紀 | 各幅に「住吉広行畫」 | 歌道の守護神として祀られた住吉神、玉津島神、後世神格化された柿本人麻呂の三神を描く[13]。 |
| 源氏物語須磨巻絵巻 | 紙本著色 | 1巻 | 斎宮歴史博物館 | 土佐光貞が描いた同名の絵巻(ハーバード大学美術館蔵)とほぼ図様が一致 | |||
| 舞楽図 | 絹本著色 | 1幅 | 83.8x144.9 | 毛利博物館 | 藤原道長の正室倫子六十歳の慶賀を描いたもの。長州藩8代目藩主毛利治親夫人・節子の求めで、表道具として制作された[14]。 | ||
| 春秋 | 絹本著色 | 双幅 | 石橋美術館 | ||||
| 神功皇后・応神天皇・武内宿禰図 | 絹本著色 | 宇美八幡宮 | |||||
| 東照宮縁起絵巻 | 紙本著色 | 5巻 | 名古屋東照宮 | 廣行、板谷慶舟、板谷慶意の合作。奥書は尾張藩家老・成瀬正典[15]。 | |||
| 平安朝相撲節会取組之図 | 44.5x70.0 | 相撲博物館[16] | |||||
住吉派
江戸時代初期に住吉如慶によって創始された大和絵の画派で、代々幕府の御用絵師を務め、明治時代まで続いた。内記を通称として継承した[17][3]。土佐派から分かれて江戸で活躍し、細密な描写、濃密な彩色、吹き抜け屋台などの特徴をもち、風景画や物語絵巻などを得意とした[18]
- 初代・住吉如慶(1598―1670) ‐ 本姓・高木。堺出身。土佐光吉門下となり、土佐広道(広通)を名乗る。1661年(寛文1年)に剃髪して如慶の号を賜り、後西天皇の命により鎌倉時代の絵仏師・住吉慶恩(慶忍)の画系復興のため姓を住吉と改めた。[17][19]
- 2代・住吉具慶(1631-1705) ‐ 如慶の長男。1685年に幕府の奥絵師となり、江戸で大和絵を広め、のち法眼に叙せられた。[20]
- 3代・住吉広保(1666-1750) ‐ 具慶の子。[11]
- 4代・住吉広守(1705-1777) ‐ 広保の子。[11]
- 5代・住吉広行(1755-1811) ‐ 本項。広守の養子。急逝した狩野典信に代わって最も格式の高い紫宸殿の「賢聖障子」の制作を行い、住吉派の名を高めた。[3]
- 6代・住吉広尚(1781-1828) ‐ 広行の長男。[11]
- 7代・住吉弘貫(1793-1863) ‐ 広行の次男で広尚の弟。賢聖障子を修繕するなど、活躍が認められて旗本(小十人格)に列せられた。[11][21][22]
- 8代・住吉広賢(1835-1883) ‐ 弘貫の養子。旧姓・遠藤。[11]
- 9代・住吉広一(1866-1906) ‐ 広賢の子。[11]
