徳川宗睦
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 享保18年9月20日(1733年10月27日) |
| 死没 | 寛政11年12月20日(1800年1月14日) |
| 改名 | 熊五郎(幼名)→宗睦 |
| 戒名 | 天祥院 |
| 墓所 | 小牧市の小牧山 |
| 官位 | 従二位・権大納言 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家治→家斉 |
| 藩 | 尾張国名古屋藩藩主 |
| 氏族 | 高須松平家→尾張徳川家 |
| 父母 | 父:徳川宗勝、母:一色氏娘・英巌院 |
| 兄弟 |
宗睦、松平義敏、蔡香院、松平勝当、 松平勝長、松平勝綱、竹腰勝起、 智岳院、井上正国、瓊樹院、内藤頼多、恭姫、源広院、松平勝鷹、内藤政脩 ら15男11女 |
| 妻 | 正室:近衛家久長女・転陵院 |
| 子 |
治休、治興 養子:治行、純姫、琴姫、斉朝ら |
徳川 宗睦(とくがわ むねちか/むねよし)は江戸時代中期からの大名。名古屋藩第9代藩主。官位は従二位・権大納言。尾張藩中興の名君と称された。
高須藩主・松平義淳(のちの名古屋藩第8代藩主・徳川宗勝)の次男として誕生。母は側室・一色氏(英巌院)。幼名は熊五郎。
宝暦11年(1761年)、父の死去により跡を継ぐ。父同様に才能に優れ、山村良由や樋口好古らを登用して藩政改革に乗り出した。その結果に行なわれた新田開発や殖産興業政策、治水工事(熱田での開墾)の多くで成功を収めている。また、問題化していた役人の不正を防止するため、代官制度の整備も行なった。農村の支配強化も行ない、徴税の確実性を務めている。さらに父の時代に少々厳しくなりすぎていた刑法を改め、寛容なものにしている。藩士に対しても相続制度を確実なものとした。文化的にも父の代に基礎が築かれていた藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の創設して藩の教育普及に努めた。寛政9年からは家臣からの封書による政策提言を受けつける制度を実施し、人心収攬を図った。
ところがこのような改革を行い過ぎた結果、宗睦の晩年には財政赤字が見え始める。これを解決するために藩札を発行したが、これがかえって物価騰貴など経済の大混乱を助長してしまった。寛政11年12月20日(1800年1月)、67歳で死去。法号は天祥院。
宗睦は名古屋藩の「中興の祖」と言われている。確かに藩政においては前半と中盤では大いに成功を収め、藩政を発展、安定化に導いた。しかし晩年の財政政策の失敗は、その後の名古屋藩における財政破綻の一因を成したのであった。
後継者問題
宗睦の実子としては、好君との間に儲けた長男・治休、次男・治興などがいたがいずれも早世、さらに支藩の美濃高須藩から養嗣子に迎えた甥・治行とその子・五郎太も早世し、続いて迎えた養子の甥・勇丸も早世したため、将軍徳川家斉の四男敬之助を養嗣子としたがまたも早世し、寛政10年(1798年)4月に一橋治国の長男斉朝を養嗣子として迎え、宗睦死後の寛政12年1月に跡を継がせた。このため、徳川義直以来の男系の血筋は断絶した[1][2]。ただし、斉朝の実母は二条治孝の娘・乗蓮院であり、治孝の父・二条宗基の実母は名古屋藩4代藩主徳川吉通の長女信受院(三千君)である。つまり斉朝は吉通の来孫(曾孫の孫)であり、尾張徳川家の血を女系で引いている。なお、斉朝の正室・淑姫(徳川家斉の長女)は、初め治行の子・五郎太と婚約していた。
嗣子・養嗣子
- 治休(1753年 - 1773年) - 宝暦3年(1753年)10月7日誕生、安永2年(1773年)6月14日没、長男
- 治興(1756年 - 1776年) - 安永2年(1773年)6月14日嫡子となる、安永5年(1776年)7月8日没、次男
- 治行(1760年 - 1793年) - 安永6年(1777年)1月25日養子となる、寛政5年(1793年)9月5日没、甥
- 五郎太(1781年 - 1794年) - 寛政5年(1793年)9月5日嫡孫となる、寛政6年(1794年)9月3日没、甥の子
- 勇丸(1793年 - 1795年) - 寛政6年(1794年)11月9日養子となる、寛政7年(1795年)9月20日没、甥
- 敬之助(1795年 - 1797年) - 寛政8年(1796年)3月23日養子となる、寛政9年(1797年)3月12日没、将軍家斉の四男
- 斉朝(1793年 - 1850年) - 寛政10年(1798年)4月13日養子となる、一橋治国の長男
