佐竹次郎
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経歴
1896年(明治29年)7月10日、佐竹作太郎の次男として山梨県中巨摩郡玉幡村(現在の甲府市)で生まれた[1][2]。
11歳で東京に転居、1915年(大正4年)に暁星中学校を卒業[3]。同級生には渡辺斌衡、阿部孝次郎、横河時介、金子光晴、近藤経一、町田敬二などがいた[4]。1918年(大正7年)に旧制第四高等学校を卒業し東京帝国大学に進学[3]。1921年(大正10年)に経済学部を卒業[2]。
当初南満洲鉄道に就職[3]したが、兄・源造が1925年(大正14年)に死去すると富国徴兵保険第一部長[5]、第十銀行監査役[6]などのポストを受け継いだ。当時富国徴兵社長であり、父・作太郎とも甲州財閥の一派として関係の深い根津嘉一郎に見込まれ[7][8]、1928年(昭和3年)に根津が設立した南朝鮮鉄道[注釈 1]では取締役[10][9]兼支配人として経営を一手に引き受けた[11]。
さらに根津財閥が保有する土地・証券の管理会社である日本土地証券社長となり[12]、根津財閥の中心的人物と評されるまでになった[13]。この頃、昭和火災保険の取締役として、同社の日産火災海上との合併交渉を行った[14]。1940年に根津が死去すると、さらに太平生命保険を日産コンツェルンに譲渡する交渉に携わり、太平生命改め日産生命保険の取締役となった[8][15]。
太平洋戦争が始まると、すでに40代後半という高齢にも関わらず海軍主計少尉となり[16][8]、西イリアンで民政府の業務を担当した[17]。終戦とともに一時捕虜となり、1946年6月に復員[16]。
同年7月、古巣の日産生命保険に復帰、第7代社長に就任した[18]。当時保険業界は海外資産の凍結や保険金支払いなどでほとんどの企業が破綻に直面しており、佐竹も受け皿会社としての日新生命を設立することに奔走[19]、わずか1年と15日で退任した[20]。その後、同じく根津傘下から独立し富国徴兵改め富国生命保険の社長を務めていた小林中の招きで副社長となり[21]、1951年4月には小林の後を継いで富国生命の第4代社長に就任した[22]。この間、大株主として昭和電工の取締役となっていたが、1953年10月には富国生命の社長職を辞して[23]石川一郎[注釈 2]の後を受けて昭和電工社長に就任[25][2]。
1959年1月、健康を害し昭和電工社長の座を安西正夫に譲って会長となった[26]。同年10月19日から休職していたところ、10月21日午前7時40分、目黒区駒場の自宅で死去。当初死因は狭心症と伝えられたが[27]、後に縊死であることが報道された[28]。63歳没。同月26日に青山斎場で葬儀が行われた[26]。
人物
プライベートではスポーツを好み、特に野球、ゴルフ、テニスを行った。