伊吹震
日本の実業家
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経歴
青少年期
1888年(明治21年)、長崎県長崎市袋町で呉服商を営んでいた豪商・伊吹家に長男として生まれた。父は当時伊吹家の養子であった、伊吹雷太(のちの藤山雷太)である。父は事情により養子縁組を解消し[注釈 1]藤山姓に戻ったが、その際に震と姉・ウタ[4]を伊吹家に残すことになった[3]。震は1905年(明治38年)に伊吹家の家督を相続した[5]。
長崎県立長崎中学校から第一高等学校に進学、1910年(明治43年)に第二部工科を卒業し[6]そのまま東京帝国大学工科大学機械工学科に進学した[7]。途中で法科大学に転じ[8]、1915年(大正4年)3月に経済学科を卒業した[9]。
藤山コンツェルン
卒業後すぐ三井物産に入社したが、1917年(大正6年)に父・藤山雷太を社長として朝鮮製糖が設立されると同社で重役に抜擢、翌1918年(大正7年)に朝鮮製糖が大日本精糖に吸収合併されると、大日本精糖の取締役となった[10]。この時期には大日本精糖の関連企業である朝鮮産業鉄道や内外ビルヂング、また武蔵野鉄道などで取締役を務めた[4]。しかし1932年(昭和7年)、伊吹は体調を崩し大日本精糖の常務取締役を辞任した。藤山雷太は慰留したが本人は「静養に専念したい」と固辞し、後任に異母弟の藤山愛一郎を推薦した[11]。
日産コンツェルン
翌1933年(昭和8年)10月、大日本製氷の臨時総会において藤山雷太が会長、伊吹が社長に選出され、実業界に返り咲いた[12]。この頃食品保存は製氷から冷蔵へと切り替わる時期であり、1934年(昭和9年)、伊吹は日本産業と提携して製氷業を日本食品工業として大合同させ、鮎川義介を会長に据え自身は社長に就任した[13][14]。これ以降、伊吹の活動は日産が中心となった[15]。
1937年には中央火災損害保険を日産が買収、日産火災海上保険と改称し伊吹が取締役社長に就任した[16][17]。1938年、鉄道王・根津嘉一郎が昭和火災保険の経営権を譲渡するにあたり、昭和火災の取締役であった佐竹次郎が伊吹と姻戚関係にあった[注釈 2]ことから日産との交渉が進み、同年12月に昭和火災は日産火災に吸収された[18]。伊吹に対する鮎川の信任は厚く、同年には日産の取締役に就任した[19]。
2年後の1940年に根津が死去し、根津財閥系の太平生命を整理するにあたって、伊吹と佐竹の関係は再び発揮された。鮎川は当初傘下に金融系企業を持たない方針であったが、日産火災が成功したことから生命保険業にも目を向けるようになっていた[20]。根津財閥側は昭和火災の譲渡で日産に好印象を持っていたため、伊吹と佐竹の間で交渉が進展し、同年7月には譲渡が成立した。太平生命は日産生命と改称され、伊吹が社長に、佐竹が専務取締役となった。佐竹は太平洋戦争中、主計少尉としてニューギニアで従軍していたが、終戦後復員すると伊吹は会長に退き佐竹に社長職を委ねた[21]。終戦後の混乱で日産生命が実質的に破綻すると、伊吹は佐竹らとともに受け皿会社としての日新生命創設に奔走した[22]。
晩年
1947年(昭和22年)、公職追放令においてG項に該当するとして、日産コンツェルンに関わる全ての経営から退いた[23]。この措置が1951年(昭和26年)に解除されると、伊吹は日産生命の相談役となった[24]。その後は神港製粉[注釈 3]社長、内外輸送取締役などを務めた[27]。
1955年(昭和30年)に上梓された中村浩の随筆『弥次馬放談』には、赤倉の無事庵と称する山荘で夫人とともに生活する様が描かれている[28]。
胃癌[29][注釈 4]のため東京都済生会中央病院に入院していたところ病状が急変し、1961年(昭和36年)3月31日21時45分に死去。4月3日にカトリック麻布教会で告別式が行われた[30]。