日産生命保険
日本の生命保険会社
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概要
太平洋戦争開戦直前に日産コンツェルンへ経営権が移行し、戦後は春光グループ(日立・日産系列)の一員とされてきた[4]。1996年3月期決算における総資産額は2兆1674億円で、当時の国内生命保険会社およそ30社のうち16位という中堅企業であった[5]。
破綻直前の本社は、渋谷駅に近い目黒区青葉台にあった[6]。渋谷駅周辺にはこうした中堅生命保険会社の本社が集まり、業界内で「渋谷系」「246号族」などと呼ばれた[3][7]。バブル時代に大手が二の足を踏むハイリスクな財テク商品を売る積極攻勢で業績拡大を狙ったことが仇となり、バブル崩壊後の低金利時代に経営破綻が相次いだ[3][8]。その結果、1990年代末から2000年代初頭にかけて当社の破綻を皮切りに、東邦生命保険(本社・渋谷区渋谷、1999年6月破綻)、千代田生命保険(本社・目黒区上目黒、同年10月破綻)が相次いで破綻した。渋谷近辺以外を本社とする中堅会社も含めると、第百生命保険(2000年5月破綻)、大正生命保険 (同年8月破綻)、協栄生命保険(同年10月破綻)、東京生命保険(2001年3月破綻)と経営破綻が合計7社となり[3][8]「生保破綻ドミノ」と呼ばれた[3]。いわゆる「護送船団方式」と呼ばれる金融保護政策が、バブル崩壊後は銀行に続き保険業界でも崩れ去ることとなった[3]。
沿革
太平生命保険から日産生命保険へ
日産生命保険の元となった太平生命保険は、農商務省で保険課長を務めた楠秀太郎を中心として設立された[9]。1906年(明治39年)に楠が会社設立を呼びかける[10]とまず早川千吉郎が応え、発起人には楠に加えて板垣退助、柳原義光、中山佐市、横山隆俊、横山章らが名を連ねた。発起人会において楠が準備資金を全て建て替えたうえで単独で設立準備を行うと宣言[注釈 2]したことから、当初出資に賛同していた浅野総一郎や根津嘉一郎らが株式引き受けを辞退するなど混乱があったが、早川や村井吉兵衛、中村静嘉などの支援を得て必要な資本金を確保した[11]。

1909年(明治42年)3月20日に設立総会を開催した。出資者の多くが村井の保有する銀行関係者であり、その株式を代表する立場であった中村を初代社長とし、楠が専務取締役として実務を担当することとなった。同月25日に免許申請、翌4月28日に農商務省より営業許可を受け、5月5日に太平生命保険株式会社として営業を開始した[12]。しかし、板垣・柳原・中山らの保有株式はほどなく左右田金作とその一族に譲渡された。1910年(明治43年)には金作の婿養子である左右田棟一が取締役に選任され、左右田銀行が村井銀行と並んで影響力を持つようになった[13]。その後しばらくは、保険界で名をはせた楠という看板によって経営は順調であったが、やがて経営方針などを巡って中村と楠の対立が表面化し[14]、1916年(大正5年)に楠は取締役を辞任、保有株式も手放して保険界から去った[15]。翌1917年(大正6年)には中村が社長を退任、第2代社長に村井貞之助(吉兵衛の妹の夫)が就任した[16][17]。
1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が起きると、村井・左右田両銀行ともに経営破綻し、両行に多額の資金を預けていた太平生命も危機に陥った[18]。両行は大蔵大臣経験者の井上準之助に援助を依頼、井上は安田財閥の結城豊太郎と相談し望月軍四郎に白羽の矢を立てた。望月はこれに応諾し、両行の保有していた太平生命の株式を引き受けるとともに金銭的支援も約束した[19]が、取締役会においては望月は監査役の任を務めるにとどまり、社長は当面空席とした[20][注釈 3]。翌1928年(昭和3年)、会長に江口定条、第3代社長として石井徹を据えることとなった。
太平生命はその後の昭和恐慌を乗り切ったものの業績が期待ほど伸びず、望月は自身が社長を務める日清生命(1906年 - 1941年。のち野村生命保険)との合併を画策した。これに対して当時富国徴兵保険を有していたが生命保険会社を持たなかった根津嘉一郎が買収を持ちかけ、1932年(昭和7年)に望月から経営権を譲り受けた。根津が第4代社長に就任、富国徴兵から吉田義輝と小林中[注釈 4]が取締役として加わった[23][24]。太平生命の株式は当初彼ら取締役が保有していたが、根津財閥の土地・証券管理会社である日本土地証券に移譲され、佐竹次郎がこれを管理した[25]。
1940年(昭和15年)に根津が死去すると吉田が後任の第5代社長となった[26][25]が、生前から根津は太平生命の事業譲渡を画策していたとされ[27]、同年7月には根津財閥保有分の株式が日産に譲渡され、日産が全株式の過半数を掌握した[28]。これに伴い、第6代社長には日産火災社長だった伊吹震が就任した。根津財閥からは日産への譲渡に尽力した佐竹が取締役として留まった[29][30]。同年10月には日産生命保険株式会社と改称された[31]。
片倉生命保険の創立と合併
片倉生命保険は、片倉兼太郎や叔父の今井五介らを中心に設立された、片倉財閥の一角を担う生命保険会社であった。1919年(大正8年)に申請を提出したものの、認可は2年後の1921年(大正10年)であった[32]。当時生命保険を扱う事業者は乱立状態であったため農商務省は新規認可を抑制する傾向にあり、片倉生命保険は普通死亡保険を扱う会社としては戦前最後の認可であった[33][注釈 5]。
創業直後から順調な業績をあげ、1932年(昭和7年)には経営危機にあった大安生命保険[注釈 6]を買収する[35]など事業拡大を続けていたが、日中戦争から太平洋戦争へと進む時期で、商工省からの勧奨を受けて1942年8月に日産生命と対等合併した[36][37]。
最初の破綻と再生
太平洋戦争終結後、生命保険各社は海外資産の凍結や多額の保険金支払いなどによって業績が急激に悪化した[2][38]。日産生命も例外ではなく、加えて財閥解体の対象となったため日産系列各社の支援も受けられなかった[39]。伊吹は社長を退き、ニューギニアから生還した佐竹が第7代社長に就任した[40]。佐竹は受け皿となる新会社の設立に取り組み、1947年8月に相互会社として日新生命保険相互会社[注釈 7]を発足させた。社長(太平生命時代から数えて第8代)には江川武が就任した。翌1948年に契約を包括移転し、旧日産生命保険は解散した[42]。
1950年に江川が死去し、専務取締役の瀬戸口又が第9代社長に就任した。瀬戸口は専務時代から社内機構の改革に取り組む[43]とともに、旧日産系列のブランドを活用すべく旧社名の復活に取り組み、1954年5月に日産生命保険相互会社となった[44][45]。1960年に瀬戸口は退任し、日立製作所出身の藤本輝夫が第10代社長に就任した。藤本は旧日産コンツェルンとの結びつきを強化する取り組みを進め、1966年には春光会の創設に加わった[46]。
1967年に藤本輝夫が勇退し、日本生命から転身し取締役・副社長を歴任した藤本正雄が第11代社長に就任した[47]。1976年には旧日産生命からの生え抜き社員[48]である矢崎恭徳が第12代社長に[49]、さらに1987年には戦後の日新生命時代からの生え抜き[50]である坂本市郎左衛門が第13代社長となった[51]。
2度目の破綻へ
1980年代半ばに、業界初の歯科医療保険を開発し販売。この保険は保険請求が非常に多く経営の悪化を招いた。
1980年代後半には地方銀行などと組み、銀行ローンで保険料を一括払いさせるという形で、融資とセットで高い予定利率の個人年金を販売した[52]ことで資産規模が4年で4倍と急激に増大した[8]。こうした財テク商品の発売は他の中堅生命保険会社にも影響を与え、同業他社も追随する結果となった[8]。しかし1990年代前半の低金利時代到来により膨大な逆ザヤを抱える原因となり、無理な運用に走ることを招いた。また破綻直前は株式市場に運用資金を傾斜させたことも含み損を膨らませる結果となった[53]。
こうしたなか、1994年7月には米本宏が第14代社長に就任した[54]。米本は店舗の統廃合や人員整理を進め、事業費を2割程度削減したものの損失補填には及ばなかった[53]。1997年(平成9年)4月25日、債務超過により主務省である大蔵省より業務停止命令を受け倒産[3][8]。破綻時の債務超過額は約600億円、総資産は約2兆1,200億円、負債総額は約2兆1,000億円。
略譜
- プルデンシャル生命保険(1987年 - )- プルデンシャル・ファイナンシャル100%出資の日本法人として設立。
- あおば生命保険(1999年 - 2005年) - フランス企業のTawa S.A.が大株主となる。2004年に売却。
- プルデンシャル・ファイナンシャル(1875年 - ) - アメリカ合衆国ニュージャージー州にて設立。1979年、ソニーとの合弁会社ソニー・プルデンシャル生命保険も設立。
破綻処理
戦後初の生命保険会社の破綻であり、当時は金融機関等の更生手続の特例等に関する法律(更生特例法)も保険会社への適用を想定していなかったことに加え、更生特例法は相互会社を対象としていなかったという形式上の障害もあり[58]、保険業法に基づく処理が行われた[注釈 8]。主務省である大蔵省は、生命保険協会を保険管理人に指名[60]。同社が相互会社であったことから株式売却という方法をとることはできず、他社との合併よりは契約移転がより容易であると判断された[61]。契約移転に当たっては、保険契約者保護基金より2,000億円の資金援助を受けたが、破綻の要因となった逆ザヤを縮小させるため、既契約の予定利率を一律2.75%に引き下げる[52]と共に、7年以内の解約に対しては解約返戻金を最大15%削減する規定が盛り込まれた。
移転先となる受け皿会社は、保護基金の2,000億円を得てもなお1,000億円の欠損を抱えるうえ、解約の増加による再破綻が懸念された。最初の対策として、欠損を補填することと新会社の信用を高めることを目的に、日産生命へ取締役・監査役を派遣していた日産・日立グループ8社[注釈 9]に出資の打診が行われた[62]。しかし8社とも応諾しなかったため、解約を抑制する次善策として早期解約控除制度[63]を導入することとした[64]。また業界団体である生命保険協会が100%出資で保険会社を設立することは独禁法上の懸念もあったため、新会社の業務を既存契約の維持管理に限定する条件を付すことで、公正取引委員会の同意を得た[65]。
また当破綻処理によって、保険契約者保護基金の資金枠が底をついたことから、破綻処理の新たな枠組みが議論される契機となった。
1997年10月1日、受け皿会社として設立されたあおば生命保険株式会社に契約を包括移転し、日産生命は解散した[66]。同じ日、最後の社長であった米本と一部役員、さらに前社長で同年8月に死去した坂本の遺族が、私財をあおば生命に寄付した[67][68]。この行為は日本的な経営責任の取り方と見なされる一方、こうした責任の取り方が過剰であるという懸念[69]や、破綻の全容を明らかにする方が先であるといった批判[70][71]など、多くの議論を呼んだ。奥村宏は難しい問題であるとしつつ「美談にしていいのか、などいろいろあるが、知らん顔しているよりは、そりゃあいい[72]」と評価し、高杉良は大蔵省の護送船団方式を踏まえて「『信じてついてきたら、つぶれてしまった』との思いから、大蔵省への当てつけで私財提供を思い立ったのではないか、と思うくらいだ[72]」と米本の含意を推察した。
その後、あおば生命も吸収合併によりプルデンシャル生命保険となった。目黒区青葉台の本社ビルはあおば生命が引き続き利用していたが、プルデンシャル生命に吸収された後に解体され、2009年には住友不動産による青葉台タワーが完成した[73]。