佐野勝稔

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 1945年6月25日
没年月日 (2024-08-31) 2024年8月31日(79歳没)
佐野 勝稔
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県藤沢市
生年月日 1945年6月25日
没年月日 (2024-08-31) 2024年8月31日(79歳没)
身長
体重
170 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1970年 ドラフト5位
初出場 1971年6月27日
最終出場 1973年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

佐野 勝稔(さの かつとし、1945年6月25日 - 2024年8月31日[1][2])は、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手。ポジションは主に二塁手

横浜高校では、三番打者、二塁手として1963年夏の甲子園に初出場[3]。準決勝に進むが、和田徹のいた明星高に敗れる[4]。明星高はこの大会で優勝。高校同期にエースの井上健仁東映)、1年下に控え投手の平岡一郎がいた。

駒澤大学へ進学。東都大学野球リーグでは1964年春季リーグで優勝を経験。1967年秋季リーグでは首位打者を獲得し、同季のベストナイン(二塁手)に選出される。大学同期に当銀秀崇後原富がいた。

卒業後に河合楽器へ入社。1968年都市対抗に出場。決勝に進むが富士製鐵広畑神部年男に抑えられ0-1で完封負け、準優勝にとどまる[5]。この大会では15打数5安打を記録した。翌1969年都市対抗は準決勝で電電関東に惜敗する[5]が、優秀選手賞を獲得、同年の社会人ベストナイン(二塁手)に選出される。

1970年ドラフト会議近鉄バファローズから5位指名を受け入団[3]1971年にはジュニアオールスターに出場。シーズン後半には飯田幸夫に代り二塁手に定着、45試合に先発出場を果たす。翌1972年には安井智規が二塁手に回り、その後ジム・クォルスも入団したため、三塁手も兼ねて起用される。しかし翌年から出場機会が減り1974年限りで引退した[3]

その後は全国屈指の強豪である中学硬式野球チーム「浜松シニア」の監督として鈴木尚典後藤武敏野久保直樹らを指導。教え子の多くを母校の横浜高校へ送り出している。息子の大輔は斉藤宜之多村仁と同期だった。

2024年8月31日に死去[1][2]。79歳没。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1971 近鉄 51157136102940033373201603152.213.310.243.552
1972 6111110210233102820110701182.225.282.275.556
1973 3337352500051111010030.143.167.143.310
通算:3年 145305273225771066685402404364.209.282.242.524

背番号

  • 36 (1971年 - 1974年)

脚注

関連項目

外部リンク

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