作州絣

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作州絣(さくしゅうがすり)は、美作国苫田郡久米郡岡山県津山市周辺)で製造されてきた [1]

西今町にある作州民芸館の作州絣の雑貨

歴史

作州(美作国)津山地方では、久米郡倭文村(現・津山市桑上、桑下)、錦織(現・久米郡美咲町)、苫田郡加茂町桑原(現・津山市加茂町桑原)、津山市綾部を中心として、古くから高級絹織物が盛んに織られていたが、17世紀の初め頃に綿栽培が始まり、両者が平行して織られるようになった。綿から手つむぎ糸を作り、紺屋で染加工をして紺無地・縞物など庶民の衣服が盛んに織られていた。

明治初期には倉吉絣の影響を受け、木綿紺絣が次第に普及したが、これらはあくまでも自家用のため、他産地の市販物に押され、生産も技術もほぼ絶滅寸前となった。1951年(昭和26年)、岡山県工業試験場美作分場(津山分場)が開設された。津山市産業振興計画の振興品目として、以前は盛んに生産されていた絣が注目される。1953年(昭和28年)からは絣織物の研究が本格的に進み、僅かに残っていた技術をもとに量産態勢を整え、「作州絣」として市販を開始。昭和31年度試作品を東京市場に出荷したところ人気に火がついた。最盛期は昭和30~33年で、織元は12軒、手織、動力織を合わせて年間約3~5万を生産した。しかし、ライフスタイルの変化や先進地(久留米絣備後絣伊予絣)との競争が激しく次第に転業者が続出、やがて生産数量も僅かとなる。1962年(昭和37年)には、杉原博が経営する「大一織物」1軒のみの生産となった。

1981年(昭和56年)、手織作州絣は岡山県郷土伝統的工芸品に指定された[2]1997年(平成9年)に杉原が死去した後は、妻の茂子が織り続けた。最後の織元であった茂子が2001年(平成13年)に死去した後は生産が途絶え、再び絶滅の危機を迎えた。その後、残された反物の販売は杉原家と縁のあった日名川家に委託された。日名川茂美は反物の販売にあたり、絣についての知識を身に付ける必要があるとの考えから、大一織物に残されていた数々の資料や岡山県工業技術センターの資料を熟読し、絣織りの生産地を巡りながら綿生地や絣織りについて学んだ。2007年(平成19年)からは、鳥取県伝統工芸士の吉田公之介(染織家・吉田たすくの三男)が講師を務める鳥取短期大学絣研究室で4年間学んだ[3]

日名川は2012年(平成24年)9月、岡山県郷土伝統的工芸品、手織り作州絣認定後継者として正式に認められ、作州絣は再び復活した。2012年8月に作州絣保存会を立ち上げ、2014年平成26年)には津山市西今町に作州絣工芸館[4]を開館した。現在は作州絣保存会が中心となって技術の伝承と後継者育成に取り組むとともに、学校・公民館等での出前講座や地域行事等での継続的な普及活動を行っている。

作州絣工芸館

特徴

  • 柄の基本:絣本来の素朴さを失わせないため白と紺という絣誕生当初の姿を基本としている。
  • 技法:手織りによる足踏織機の手仕事で伝統的手法による。
  • デザイン:「地色」「図柄」に近代感覚を取り入れて、現代人にも充分喜んでもらえる普段着の民俗織物として製作に苦心している。その結果、他の絣織物には見られない素朴さの中にも近代性のある特徴を持っている。

出典

参考サイト・外部リンク

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