佟図頼

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佟図頼満州語ᡨᡠᠩ
ᡨᡠᠯᠠᡳ
、転写:tung tulai、万暦34年(1606年) - 順治15年(1658年))は清代初期の軍人で、康熙帝の外祖父である。初めの名は盛年[1]。はじめ漢軍正藍旗に所属し、漢軍正藍旗都統を務めた。その後、満洲鑲黄旗に改隷された。佟養真(清代に避諱して佟養正と改称)の子である。順治15年に卒し、恩賜により祭葬され、少保を贈られ、なお太子太保を兼ね、諡号は「勤襄」とされた。

生年月日 万暦34年(1606年
出生地 遼京
没年月日 順治15年(1658年
死没地 清の旗 京師
概要 生年月日, 出生地 ...
佟図頼
佟图赖
ᡨᡠᠩ
ᡨᡠᠯᠠᡳ
生年月日 万暦34年(1606年
出生地 遼京
没年月日 順治15年(1658年
死没地 清の旗 京師
親族 佟養真(父)
ロンコド(孫)
康熙帝(外孫)
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生涯

先祖は女真人であり、代々トゥンギャ(佟佳)に居住し、土地の名を氏とした。佟氏一族は強く漢化していた。天聡5年(1631年)、ホンタイジに従い大凌河へ出征し、戦功により二等車都尉に進んだ。崇徳3年(1638年)、兵部右参政に任ぜられた。崇徳5年、睿親王ドルゴンに従い錦州を包囲し、白官児屯台を攻略した。6年には鄭親王ジルガランに従い再び錦州を包囲し、金塔口三台を奪取した。7年には松山城を攻め、一等軽車都尉に進んだ[1]

康熙年間、娘の孝康章皇后が皇帝の生母となった恩典により、一等公を追贈され、さらに満洲鑲黄旗に改めて所属させられた。雍正帝が即位すると、太師を贈られ、佟養正を一等公に追封し、諡号は「忠烈」とされた。雍正2年には勅して専祠が建てられ、春秋に祭祀されることとなり、皇帝自筆の祠額には「功宗元祀」と記された[2]

家族

出典

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