佟国綱
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生年月日
1630年代
| 佟国綱 佟国纲 ᡨᡠ᠋ᠩ ᡤᡠᠸᡝ ᡬᠠᠩ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1630年代 |
| 没年月日 | 康熙29年(1690年) |
| 親族 |
佟図頼(父) 孝懿仁皇后(妹) 佟国維(弟) ロンコド(甥) 愨恵皇貴妃(姉) 孝康章皇后(伯母) 康熙帝(外甥・娘婿) 孝慎成皇后(五世孫) 端恪皇貴妃(六世孫) |
佟国維(満州語:ᡨᡠ᠋ᠩ
ᡤᡠᠸᡝ
ᡬᠠᠩ、転写:tung guwe g῾ang、1630年代 - 康熙29年(1690年))は清初の政治家、重臣、将軍、外戚。一等公爵・都統。康熙帝の母方の叔父。太子太保・佟図頼(三等ジンキニ・ハファン、精奇尼哈番、満洲語で子爵に相当)の長子であり、孝康章皇后の兄、佟国維の兄である。
本来の姓は佟氏であり、漢化した女真人の後裔である[1]。もとは漢軍正藍旗に属していたが、のちに康熙帝が実母のために旗籍を引き上げた際、その一族は満洲鑲黄旗に移され、満洲姓をトゥンギャ氏(佟佳氏)へと改めた[2]。
康熙27年(1688年)、命を受けて領侍衛内大臣のソンゴトゥ、張鵬翮らとともにロシア帝国と交渉し、ネルチンスク条約を締結して、清朝の北方国境の安全を確保した。
康熙29年(1690年)、ジュンガル部のガルダン討伐の戦いであるウラン・ブトゥンの戦い(現在の内モンゴル自治区ヘシグテン旗)において戦死した。
死後、功臣廟の東側第二龕の第一位に祀られた[3]。