侍女に囲まれたウジェニー皇后
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| フランス語: L'Impératrice Eugénie entourée de ses dames d'honneur 英語: Empress Eugénie Surrounded by her Ladies in Waiting | |
| 作者 | フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター |
|---|---|
| 製作年 | 1855年 |
| 種類 | 油彩、キャンバス |
| 寸法 | 300 cm × 420 cm (120 in × 170 in) |
| 所蔵 | コンピエーニュ城、オワーズ県コンピエーニュ |
『侍女に囲まれたウジェニー皇后』(じじょにかこまれたウジェニーこうごう、仏: L'Impératrice Eugénie entourée de ses dames d'honneur, 英: Empress Eugénie Surrounded by her Ladies in Waiting)は、19世紀のドイツ出身の画家フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターが1855年に制作した肖像画である。油彩。フランス第二帝政の皇帝ナポレオン3世の皇后ウジェニー・ド・モンティジョと8人の侍女たちを描いている[1]。ウジェニーの依頼で1855年に開催された第1回パリ万国博覧会に出品するため制作された。現在はオワーズ県コンピエーニュにあるコンピエーニュ城に所蔵されている[2][3][4]。
肖像画は同年5月に開幕するパリ万国博覧会に出品するため、ウジェニー・ド・モンティジョ皇后の依頼により制作された[2]。ヴィンターハルターは皇后のお気に入りの画家であった[4]。肖像画は週替わりで主権者を取り囲んでいた侍女たちの中心にいるウジェニー皇后を描くことになっていた。画家が最初に油彩習作を描いたとき、侍女の数は10人であった。ところが、7人目の女性、フェライ伯爵夫人レオニー・ブジョー・ド・ラ・ピコヌリー・ディリー(Léonie Bugeaud de la Piconnerie d'Isly, Comtesse de Feray)が1855年1月に辞職したため、画家は数週間のうちに肖像画の構図を根本的に見直さざるを得なくなった。ヴィンターハルターは万国博覧会の開幕に間に合わせるため自身のアトリエの協力を得て4ヶ月で完成させた[5]。
作品



絵画の冷たく明るい光に包まれた場面は、17年間フランスの皇后であったウジェニー・ド・モンティジョが田園風景の中で8人の侍女に囲まれている様子を描いている。皇后は頭にスイカズラの花冠を戴き、手に同じスイカズラの枝を王笏のように持っている。皇后は他の女性たちよりも強い存在感を放っている[4]。
皇后は右手に第3代リヴォリ公爵フランソワ・ヴィクトル・マッセナの妻で、侍女長であるデスリンク公女アンヌ・ドゥベル(1802年-1887年)と対面している。また左手にいるのは第3代バッサーノ公爵ナポレオン・マレの妻であるポリーヌ・マリー・ギスレーヌ夫人(1814年-1867年)である。他は皇后に毎日付き従った宮廷の貴婦人たちである。左からピエール男爵ウジェーヌ・ステファンの夫人ジェーン・マリー・ソーン(1821年-1873年)、ルゼ=マルネジア子爵ジョセフ=アントワーヌ=アルベール(Joseph-Antoine-Albert de Lezay-Marnesia)の夫人ルイーズ・ポワテロン・デュ・タルド(1826年-1891年)、中央にモンテベロ伯爵ギュスターヴ・オリヴィエ・ランヌの夫人アドリエンヌ・ド・ヴィルヌーヴ=バルジュモン(1826年-1870年)、ラ・トゥール=モブール侯爵セザール・ド・ファイの夫人アンヌ・イヴ・モルティエ・ド・トレヴィース(1829年-1900年)、そして右側には、ラス・マリスマス・デ・グアダルキヴィール侯爵アレクサンドル・アグアド・モレノ(Alexandre Aguado Moreno, marquis de Las Marismas de Guadalquivir)の夫人クレール・エミリー・マクドネル(1817年-1905年)、彼らの後ろに立って、セギュール伯爵夫人の娘で、マラレ男爵ポール・マルタン・デギュヴィーヴ(Paul Martin d'Ayguesvives)の夫人ナタリー・ド・セギュール(1827年-1910年)[5][8]。
素朴な背景とは対照的に侍女たちはみな最高級の舞踏会のためのガウンを身にまとい、種々の装飾品を身に着けている。一方、ウジェニーは画面の中でただ一人、装飾品を身につけていない。ヴィンターハルターは油彩習作の構図を修正し、おそらく皇后が右腕に身つけていたであろうブレスレットを侍女の頭で隠している。これによりヴィンターハルターは若いウジェニーの白い胸元を際立たせ、加えて1853年にナポレオン3世と結婚した際にウジェニーが示した慎み深さをも説明した。すなわちウジェニーはパリ市議会からダイヤモンドのネックレスの贈呈を提案されたが、彼女はこれを辞退し、代わりに子供たちの学校を設立する費用に充てることを要請した。このように、ヴィンターハルターは描写しないことで、むしろ皇后の肉体的な特徴だけでなく精神的な資質をも描写した。皇后が高い位置に配置されたのは、その地位の高さだけではなく、その魂の高潔さをも表している[4]。しかしながら、このウジェニー像やその配置は鑑賞者に威圧的な印象を与えるためのものではない。それはウジェニーがデスリンク公女に贈るスイカズラの花から明らかである。スイカズラは19世紀の伝統では友情を象徴した。またウジェニーの髪と衣装を飾るライラックは彼女が特に好んだ花で、春の季節と恋心を象徴した。当時、ライラックは温室栽培が盛んで、ウジェニー自身も儀礼用衣装に取り入れることでライラックの人気に貢献した[4]。
多くの人物を描いた構図は、ヴィンターハルターの初期傑作の1つである『デカメロン』(Le Décaméron, 1837年)といった他の絵画を想起させる。これら2つの絵画では、風景はまるで劇場の舞台のように登場人物の背後に配置された簡素な装飾を形成している。また素早く制作され、絵の具の滴りが残っている。登場人物は儀礼上の秩序を正当化するために、傾斜面上に配置された印象を与える。一方で衣装は明るい色のクリノリン、フリル、ルーシュとともに、よりいっそう詳細に描写している[5]。この絵画に提示されたモデルは、ヴィンターハルターが少し前に制作し、同じ構図を用いた別の作品『フロリンダ』(Florinda, 1852年)のモデルも果たしたのではないかという噂が遡及的に流れている。『フロリンダ』では裸婦が描かれているため、この比較は物議を醸さずにはいられなかった[1]。
保存状態は非常に良好である[3]。左下にヴィンターハルターの署名と日付(1855年)が記されている[2][3]。前述の油彩習作に加え、同年に制作された素描と小さな自筆画が個人コレクションに所蔵されている[8]。
当時の反応
肖像画の評価は賛否両論であった。パリの美術評論家たちは肖像画の雑な側面を指摘せずにはいられず、一見して登場人物の個性や心理的洞察よりもドレスの細部に関心が集中していると非難した。特に皇后の肖像画は威厳を欠いていると見なされた[2]。テオフィル・ゴーティエは「コケティッシュで輝くような様式」であるが「優雅さに少々執着しすぎている」と評し、ギュスターヴ・プランシュは「ドレスは過度にコケティッシュに広がっているが、実際には何も描かれていない」という「ヴァトーのパロディ」を痛烈に批判した[4]。一方でこの肖像画は一般大衆だけでなく宮廷関係者の間でも大きな反響を呼び、新政権の華やかさを象徴するものと見なされた。その後、1856年にウィーンの芸術協会で展示された。版画の形で広く流通し、第二帝政の象徴となった[5]。
来歴
肖像画は夫であるナポレオン3世の政権時代はフォンテーヌブロー宮殿に展示された[4]。1870年にウジェニーがイギリスに亡命すると、肖像画は1881年にウジェニーに贈られ、ファーンバラ・ヒル・スクールにある彼女の邸宅の玄関に飾られた[4]。ウジェニー死後の1927年にファーンバラで売却され、アレクサンドリー・ドレンジアーニ男爵夫人(Don baronne Alexandry d'Orengiani)によってマルメゾン城国立美術館に寄贈された[3]。現在はコンピエーニュ城に所蔵されている[2][3][4]。