保定航空学校
From Wikipedia, the free encyclopedia
国民軍への接収
安直戦争により段祺瑞の安徽派を追放した曹錕・張作霖は1920年8月、北京を制圧。しかし、張作霖は南苑航空学校の航空機や機材の大半を東北に持って行ってしまった[1]。曹錕は直系航空隊の設立に取り掛かり、南口工廠に北京交通部籌弁航空事宜処を設置、また、北京~庫倫等の定期輸送便として使われていたハンドレページ O/400 6機のうち3機が南口工廠に残されていたため、これを保定に持って行った[2]。
1921年11月1日、蠡県の劉爺廟飛行場にて保定航空隊(隊長:敖景文、副隊長:趙雲鵬)が正式に設立。しかし1922年3月11日、O/400 1機が着陸に失敗し炎上、搭乗員の馬毓芳ら3名のほか、整備士2名、23師連長1名など計14名が死亡する大事故となった[2]。これを聞いた曹錕は直隷派の航空戦力の未熟さを痛感し、訓練の強化を命じた[2]。第一次奉直戦争後の同年10月1日、段祺瑞政権時代に借款で購入していたビッカース ビミー・コマーシャル40機、ヴィッカーズ VIM35機(それぞれ大ビミー(大維梅)、小ビミーと呼ばれた)、アブロ 504K 60機が到着[3]。うち20機を保定航空隊に充てる事とし、11日、大ビミーの戦力化のため清河県に「大維梅訓練班」(長:趙雲鵬)を設置[4]。また、冬に飛行練習生隊を設立し、後に航空練習班に拡充[5]。
1923年11月、保定航空隊が北京の中央航空司令部に編入されると、保定航空教練所が正式に設立[6]。所長は中央航空第2隊隊長の沈徳燮が兼任、欧陽璋が教育長を務め、67人の飛行教官がいた[5]。当時、陝西省長の劉鎮華は、姚中など10名の学生を航空教練所に派遣した[5]。
1924年、第2次奉直戦争勃発。同年10月の時点で、すでに半数以上の学生が単独での飛行が可能だった[6]。沈徳燮は副飛行員の名義で従軍させようとしたが反対され、学生達は飛行助手として参加することになった[6]。
1924年10月、戦争に乗じて直隷派への反旗を翻した馮玉祥の国民軍が北京を制し、保定に進出した孫岳の国民第3軍は航空教練所を接収[7]。帰順を拒んだ一部人員は飛行機とともに天津や昌黎、秦皇島に逃れたが、いずれも馮玉祥直轄の国民第1軍や奉天軍に接収された[7]。南苑航空学校の飛行機も接収され、第3軍のもとに10機程度が集まった[7]。かつて孫岳が指揮していた第15混成旅の幹部訓練班を出た楊鶴霄などの働きかけにより航空署長の何遂の支持を受け、航空教練所は航空署直轄となり、12月、国立保定航空学校に改称[8][9]。
1925年1月、保定で校長の沈徳燮が司令官を兼任する国民第3軍航空司令部が成立[7] (副司令:蔣逵、参謀長:陳思濂[注釈 1]、学監:王風翔)。3月、国民第3軍に随伴して河南省は洛陽北邙山南嶺の西宮に移動[8][4][10]、秘書室は衷立人と張慕超、軍需室は楊鶴霄と甄中和が担当し、副官長は石邦藩、掩護隊長は董世賢、またその他の学生も副官や押運員に任命された[11]。移転後、国立洛陽航空学校に改名[12]。
1925年6月14日[13](秋とも[14])、学生27人が卒業。それからまもなく廃校となった[12]。
7月11日、楊鶴霄、劉牧群、甄中和、劉義曾の4名と小ビミー2機で航空先遣隊が編成され、陝西省に派遣された[13]。
直隷派への再接収
1926年1月、盛り返した直隷派・呉佩孚の討賊聯軍は河南省への侵入を開始した(鄂豫戦争)。2月、卒業生で国民第3軍航空隊が編成され、第1隊隊長が楊鶴霄、第2隊隊長が崔滄石となった[12][15]、岳維峻率いる国民第2軍との連携体制をとった。しかし翌月、国民第2軍は全軍壊滅し、洛陽にいた国民第3軍航空隊も討賊聯軍により接収されてしまう[7]。6月頃、保定に討賊聯軍航空司令部(司令:敖景文、参謀長:韋庭錕)が設立、航空第1隊(隊長:趙歩墀)および航空第2隊(李泯)が編成された[16]。