保田知宗
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略歴
保田長宗(佐介、山城守)の子として生まれる[1][5]。畠山氏の内衆は守護家畠山氏の内衆と守護代家遊佐氏の内衆とに分かれるが、父・長宗は守護家畠山氏系の内衆だった[6]。永禄8年(1565年)の5月から6月に畠山政頼(秋高)が畠山氏の家督を継いだが[7]、この年の10月、長宗は三宅智宣との連署で観心寺に禁制を発給しており[6]、同年には知宗も政頼の取次として仕えていることが確認できる[8]。
元亀4年(1573年)6月、将軍・足利義昭と織田信長が対立する中、畠山秋高が守護代・遊佐信教により殺害された[9]。知宗はその後もしばらくは反信長方として高屋城に在住するが[10]、翌天正2年(1574年)5月には織田信長に通じており、羽柴秀吉から遊佐盛を介して人質を求められている[11]。この後、佐久間盛次の子・安政が知宗の婿となり保田姓を名乗っていることから[12][13]、この時差し出した人質は知宗の娘と考えられる[14]。同年10月、知宗は遊佐信教の籠る高屋城攻めに従事し、織田方となった根来寺との取次を務めた[15]。天正4年(1576年)4月には大坂本願寺攻めに加わり(石山合戦)、同年5月3日、原田直政指揮による三津寺攻めにおいて知宗の子が討死している(「太田牛一旧記」)[16]。安政が知宗の婿養子となったのはこの後とみられ[17]、この頃より知宗に代わって「久六」(安政)が登場していることから、知宗から安政に代替わりしたとも考えられる[13]。
また、本願寺との戦いにおいて、本願寺を攻略すれば残る敵城も自壊すると「やす田」が進言し、佐久間信盛・信栄父子がそれに連判して信長に報告したとの記述が、天正8年(1580年)8月に信長から信盛父子に出された折檻状にある[18]。この「やす田」は安政ともされるが[17][19]、知宗を指すとして、知宗が信盛の右腕として働いていたとする見方もある[20]。折檻状からは「保田」に対し信長が激怒していたともうかがえ、信盛父子が高野山に蟄居した際、知宗と安政はそれに同行したとも推測される[21]。
天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉と柴田勝家による賤ヶ岳の戦いに際し、知宗は安政の叔父である勝家方として参戦、討死した[22][注釈 2]。