石山合戦
浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い(1570年 - 1580年)
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石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、織田信長と浄土真宗本願寺勢力、及び本願寺を支援する毛利氏らとの戦い。本願寺法主の顕如が石山(大坂)本願寺に篭って戦った。
| 石山合戦 | |
|---|---|
「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)。大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの(北が左) | |
| 戦争:石山(大坂)本願寺の一揆鎮圧戦 | |
| 年月日:元亀元年9月12日(1570年10月11日) - 天正8年8月2日(1580年9月10日) | |
| 場所:摂津国大坂(大阪市中央区) | |
| 結果:本願寺と織田信長との講和 | |
| 交戦勢力 | |
| 本願寺 雑賀衆 毛利水軍 村上水軍 |
織田水軍 |
| 指導者・指揮官 | |
| 顕如 下間頼廉 児玉就英 乃美宗勝 村上武吉 ほか |
原田直政 佐久間信盛 九鬼嘉隆 ほか |
| 戦力 | |
| (天王寺)約15,000 (木津川口1)約800隻 (木津川口2)600隻 |
(天王寺)約10,000 (木津川口1)約300隻 (木津川口2)6隻 |
| 損害 | |
| (天王寺)2700 (木津川口1)不明 (木津川口2)不明 |
(天王寺)不明 (木津川口1)壊滅 (木津川口2)不明 |
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概要
広義では、元亀元年9月12日の本願寺の挙兵から天正8年8月2日の教如の退去までの10年間を指すが、天正8年閏3月5日(1580年4月18日)に顕如が勅命講和を受け入れて戦闘行為を休止したことから、閏3月5日を終わりとすることもある。
戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。
なお、「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)と混交するためである。本願寺勢力とは浄土真宗本願寺派の他、真宗興正派(本山・興正寺)と後に本願寺派から分かれる真宗大谷派(本山・東本願寺)である。また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある[注釈 1]。以下の文中においては、単に本願寺と記す。
また、「石山本願寺」という呼称についても近年、この「石山本願寺」の名称が登場したのは江戸時代以降で、石山合戦当時には「大坂本願寺」と呼ばれていたとする説が出されている[1]。そのため、これを支持する研究者の間では、「石山合戦」や「石山戦争」といった呼称は当時の史実と合致しないとして、「大坂本願寺戦争」などの名称を用いる者がいる[2]。
背景

大坂の地にある大坂本願寺はもともと、本願寺の第8世法主・蓮如が隠居先として選んだ場所であり、大坂御坊と呼ばれていた。畿内において本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた細川晴元は日蓮宗徒の法華一揆らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(山科本願寺の戦い、天文の錯乱)[3]。
これにより、山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。本願寺は当時、加賀に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。また、山科焼失の前年に大小一揆と呼ばれる本願寺一門内の内戦を加賀で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。そこで、10世法主の証如は京都に近く、交通の便の良い大坂にある大坂御坊を本拠地とし、新たに本願寺(大坂本願寺)とした[4]。
細川晴元は本願寺の発展を恐れて、たびたび本願寺を攻撃したが、本願寺がある大坂の地は小高い山や淀川などの川が多く守りに適した場所であり、山科を教訓として本願寺は軍備を整え、籠城戦を行ったためにまったく戦果を挙げられなかった。晴元以外の時の権力者も本願寺の武力を恐れ、同盟を結ぶなどして本願寺との戦火を避けた結果、本願寺の勢力は年々増大し、11世法主の顕如が門跡(門跡は皇族・貴族が僧籍に入り、住職となる際の呼称)になるなど、中央権力との結びつきが強くなった。
そうしたなか、永禄11年(1568年)10月に織田信長が足利義昭を擁して、上洛に成功した[5]。足利義昭は室町幕府の第13代将軍・足利義輝の弟であり、義昭が信長の武力と共に京都に入ったことで、将軍の地位は第14代将軍の足利義栄から義昭に渡ることが確実になった。
信長は上洛して、義昭を15代将軍にすると、すぐに畿内をほぼ制圧した[6]。信長は幕府復興の名目で、教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこなった。また、本願寺には「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し、顕如はこれを支払った。
永禄12年(1569年)半ばから、信長と義昭との仲はだんだんと険悪になっていった。この年の9月、信長は三好氏征伐を決行する。当時、義昭によって京都を追われ、本願寺を頼っていた近衛前久は顕如に対し、三好氏の支援を進言した。ただし、前久は朝廷内・幕府内での対立関係からくる義昭や二条晴良の排除が目的であり、信長との直接の利害関係はなかったようである。その証拠に信長が義昭を追放した後、前久は京都に帰還し、一転して信長派の中心人物となっている。
経過
開戦
元亀元年(1570年)9月12日、顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし[注釈 2]、三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した(野田・福島の戦い)[8]。
そして、翌13日に本願寺軍は淀川堤を切り、織田方を水攻めにした[9]。信長は三好為三に摂津の豊島郡を与え、三好三人衆に備えさせて撤兵した[9]。
本願寺軍は寺に戻ると、籠城の構えを見せた。織田軍は志賀の陣で既に四面楚歌の状態であるため、本願寺に監視のための軍を置くと、朝廷に働きかけて本願寺に矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。そのため、本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わったのである。
本願寺挙兵とほぼ同時に、伊勢長島の願証寺で一向一揆が発生した(長島一向一揆)。長島は尾張と伊勢の海上交通における要衝の地であった[10]。
11月、長島一向一揆は尾張の古木江城を落として、城を守っていた織田信興(信長の弟)を自害に追い込むなど、信長に公然と敵対するようになった[10]。
織田信長の長島攻め

元亀2年(1571年)5月、信長は長島殲滅を図るが失敗し、氏家卜全など多数の将兵を失った[11]。この年の一向一揆に対する戦果は、9月に一向一揆の篭る志村城・金ヶ森城を降伏させたに留まる[11]。
元亀3年(1572年)正月、本願寺は甲斐の武田信玄(信玄の妻と顕如の妻は姉妹である)に対し、信長が摂津・河内に出陣するとの情報を伝え、その背後を突くように依頼している[12]。
7月、信長は自身の領国の本願寺門徒に対し、大坂への出入りを禁止した[12]。
8月、義昭は信玄に対し、信長と本願寺の和睦斡旋を依頼している[12]。
元亀4年/天正元年(1573年)7月、義昭が槙島城の戦いで信長に敗れ、京都から追放された[13]。その後、義昭は河内の若江城に入ったが、城に至る道中の警固など[14]、本願寺門徒によって支えられた[13]。
8月、信長は長島を再度攻めたが、またも失敗した[15]。
但し、本願寺は兵力を出して織田方と戦火を交えてはいないものの、いわゆる情報戦は非常に盛んにおこなった。顕如は遅くとも元亀3年末ごろまでには、甲斐の武田信玄らと密かに同盟を結んでおり、信長を東西から挟撃しようと画策している。足利義昭もこの流れに乗って信玄に上洛を促すなどしている。当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交や上杉謙信への友好工作などを行っている。
したがって、天正元年末までは、本願寺と信長は互いに牽制しつつも戦火を交えない、いわば冷戦よりややましな程度で推移していたと思われる。
長島・越前一向一揆の殲滅

天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には、義景の元家臣である前波吉継を守護代に任じて統治させた。
しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌天正2年(1574年)1月に富田長繁が引き起こした土一揆によって殺された[15]。その後、長繁も勝手な振る舞いが多くなり、その専横に怒った土一揆は加賀にいた本願寺の僧・七里頼周を自らの大将として、一向一揆に変貌した。
2月18日一揆は長繁を滅ぼすと、織田方の役人をも排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく一向一揆のもちたる国となった(越前一向一揆)[15]。これにより、信長はせっかく得た越前を奪われることになった。
2月20、顕如は新たに下間頼照を越前に派遣し、越前を統治させた[16]。また、『越州軍記』よると、本願寺は頼照を「越前の守護」に任じた[16]。
4月2日、本願寺は信長に対して再挙兵し、信長の和議が決裂することになった[15]。また、甲斐の武田勝頼も正月から美濃を攻め、5月には遠江の高天神城を攻めている[17]。本願寺や武田氏の背後には、足利義昭の存在があったとみられる[16]。
本願寺は長島・越前・大坂の3拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があった。信長はそれを最大限に活用して、各個撃破にでた。
7月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした[18]。長島・屋長島・中江の3個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、9月29日には降伏・開城した。
しかし、信長はこれを許さず、長島から出る者を「根切」に処した[18]。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢が捨て身の反撃を行って、織田信広(信長の兄)などの織田氏一門衆が数人討ち死にしている。激怒した信長は、残る屋長島・中江の2個所を柵で囲んで、一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害した。
天正3年(1575年)3月、武田勝頼は信長が大軍で畿内に出陣しているのを見て、三河侵攻を計画し、4月に甲府を出陣した[19]。この勝頼の出陣は、本願寺や三好氏と連動したものであり、信長と徳川家康を東西から挟撃することを目的としていた[20]。
4月、信長は本願寺と結託した高屋城主の三好康長を降伏させた(高屋城の戦い)[19]。これにより、武田方の東西から挟撃する計画は破綻した[19]。
5月、信長は武田勝頼を設楽原で破り、その勢力を退けた(長篠の戦い)[19]。勝頼はこの戦いで大敗し、多くの重臣を失った[19]。
6月、信長は越前への動員令を発した[21]。このとき、信長は法華宗門徒や真宗三門徒まで動員している[21]。
8月12日、信長自らが越前に向けて進発した[22]。一方越前では、下間頼照ら本願寺から派遣された坊官らが重税を課した事などにより、越前で一揆を起こした民衆との関係は悪化し、坊官の専横に反発し一揆が起こるという一揆内一揆まで起きていた。
こうした一向宗内部の混乱に乗じて、織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前を制圧し、ここでも虐殺を行った[23]。さらに、織田軍は加賀の南部の江沼郡、能美郡まで攻め込んだ[24]。
9月、信長は北ノ庄に戻り、さらに岐阜へと戻って、本願寺を牽制した。
本願寺3拠点の2つが撃破され、特に長島では徹底的な「根切」を行ったことを知った顕如は、信長に対して自らの行為を詫び、さらに条書と誓紙を納めることで、10月に信長と再度和議を結んだ[25][26]。しかし、前回の和議とは異なり、信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利な状態での和議となった[注釈 3]。
一方で中国地方では、この天正3年に安芸の毛利氏が織田方へと寝返った備中の三村氏を備中兵乱で滅ぼしたほか、備前と美作でも宇喜多直家と同盟して天神山城の戦いを後援し、浦上宗景・三浦貞広を失領させ、大きく東へと勢力圏を拡大した[19]。これによって、毛利氏の軍勢は陸路で播磨まで侵攻する事が可能になり、海路でも瀬戸内海の制海権を確保し、対織田を視野に入れた本願寺との連携が模索され始める。また、毛利氏の本国である安芸は、本願寺門徒の多い地域でもあった(安芸門徒)[27]。
本願寺と毛利氏・上杉氏との同盟

天正4年(1576年)2月、足利義昭が毛利輝元を頼り、紀伊由良の興国寺から備後の鞆に動座した[28][29]。義昭は輝元に幕府の復興を依頼した[28]。
その結果、5月に輝元ら毛利氏は織田氏との対決を決断し、反信長の立場となった[30][31]。毛利氏は織田方との国境線での緊張が高まるなか、信長との対決は避けられないと判断し、義昭を擁して立ち上がるに至った[32]。
時を同じくして、4月に越後の上杉謙信も本願寺と和睦交渉を開始し、5月中旬に両者の和睦を成立させた[33][34][35][注釈 4]。謙信が本願寺と和睦した背景には、義昭が毛利氏の庇護下で鞆に落ち着き、義昭自身が謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる[33][35]。
5月18日、加賀一向一揆の奥政堯が謙信の近臣らに対し、和議の書を受け取ったことや、馬を貰った礼を認めた書状を送っている[33]。すでに、同月8日には加賀一向一揆が、謙信と交渉権を持つ金沢御坊の七里頼周らに対し、謙信に出陣するように求めていた[36]。これにより、謙信と一向一揆との対立は過去のものとなった[37]。
5月、輝元が謙信に上洛を呼びかけたことで、6月11日に謙信は輝元の叔父・小早川隆景に対して、来秋には上洛するように伝えている[36][38]。
天王寺合戦

4月、顕如は毛利輝元に庇護されていた将軍の足利義昭と与して、三たび挙兵した[39]。
4月14日、信長は明智光秀らに命じて、本願寺を三方から包囲した[40]。しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現・大阪市中央区)や木津(現・大阪市浪速区)から海上を経由して、弾薬・兵糧を補給していた。
5月3日、織田軍が木津を攻めると、本願寺軍は逆に1万を超える軍勢をもって木津の織田軍を蹴散らし、天王寺砦(現・大阪市天王寺区)付近まで攻め入った(天王寺合戦)。この合戦で、包囲軍の主将であった原田直政が戦死している[41]。危機に陥った光秀は砦に立て篭もり、信長に救援を要請した。
この敗報を聞いた信長はすぐさま諸国へ陣触れを発したが、突然のことであるために兵の集結が遅かった[42]。そのため、5月5日に信長は痺れを切らして、100騎ほどで京都を出発し、若江に着陣した[39]。
5月7日、信長は3000ばかりの兵を連れて、天王寺を包囲している15000余の本願寺軍に攻めかかった[43]。包囲を突破して砦に入ると、すぐさま光秀をはじめとする砦内の兵等と合流して討って出た。そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し、本願寺に退却した。
信長も引き上げたが、原田直政の後任の司令官に佐久間信盛を任命し、城番として天王寺砦に入れた[43]。また、信長は本願寺を包囲して封鎖するため、尼崎・吹田・花隈(花熊)・能勢・大和田・三田・多田・茨木・高槻・有岡の10ヶ所に付城たる城塞を構築させた[44]。さらに、信長は荒木村重や淡路の安宅甚五郎に命じ、大阪湾に織田水軍を展開させ、海上封鎖を行った[44]。
第一次木津川口海戦

織田軍の攻囲を受ける本願寺は、毛利輝元に大阪湾に展開する織田水軍を撃破して、兵糧を大坂に入れるよう求めた[44]。
輝元は本願寺の要請に応じ、その救援のために毛利水軍を動員して、海上から物資を運び入れようと計画した[44]。そして、児玉就英や乃美宗勝、村上武吉などからなる大艦隊を編成し、その数は兵糧を積んだ船600余艘に、警固する軍船300余艘(『信長公記』では総数7、800余艘[45])という規模であった[44]。
7月上旬、毛利水軍は播磨の室津に到着し、12日に淡路の岩屋を経て、ここで雑賀衆を乗船させた[44]。そして、大阪湾へと陸沿いで北上し、堺・住吉沖を進み、翌13日に大阪湾木津川河口に到着した[44]。
織田水軍は安宅船10艘と関船(小型の軍船)300艘を用意して、毛利水軍を待ち構えていた[46]。毛利水軍が大坂に兵糧を運び入れるという風聞は、5月の時点からすでに流れており、信長はその阻止を命じていた[27]。
そして、7月13日から14日朝にかけて、両軍による大規模な海戦が行われた(第一次木津川口海戦)[46]。本願寺軍は両軍の激突を見て、木津・桜の岸・寺島など島に築かれていた砦から一斉に出撃し、住吉浜手の織田軍を攻撃、陸上からの妨害を封じようとした[45][46]。そのため、佐久間信盛の軍が天王寺砦から出撃し、これに対応した[45]。
毛利水軍は安宅船がなく、織田水軍の安宅船からの鉄砲・大筒による攻撃に苦しんだが、焙烙火矢でこれに対抗し、織田方の軍船を焼いた[46]。その結果、織田方は軍船数百艘を撃沈され、真鍋貞友ら2千余人が戦死するなど、大きな打撃を受けて敗退した[47][48]。
その後、勝利した毛利水軍は大坂に兵糧を入れ、西国へと帰還した[45]。信長は自ら出馬しようとしたが、勝敗が決したことを知らされたので、やむを得ず踏みとどまった[45]。
この戦いは永禄11年の上洛以後、敵城を包囲中の織田主力部隊が、敵の大集団に外側から封鎖を強行突破された希有の例であるため、信長に強烈な打撃を与えたと思われる[49]。
紀州征伐
天正5年(1577年)2月2日、紀伊の雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的[注釈 5]であった雑賀三緘衆[50]と根来寺の杉の坊が信長方に内応した[51]。
これを受けて、2月13日に信長は準備を整えた上で京都を出、対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入った(紀州征伐)[51][52]。信長の軍は貝塚にいた雑賀衆を攻撃したのち、佐野に進み、自軍を信達で山手・浜手の二手に分けて紀伊に攻め入った。
3月1日、信長は雑賀衆の頭目の1人で有力な門徒でもある鈴木孫一の居城を包囲し、攻め立てた[53][54]。
しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、戦線も膠着状態に陥ったことから、事態を憂慮した雑賀衆が、大坂での事に配慮を加えることを条件に降伏を申し入れた[55]。そのため、信長はこれを受け入れて、兵を引いた[54]。
なお、足利義昭と毛利輝元は上杉謙信に対し、信長が雑賀を攻めている隙をついて上洛するように催促した[56]。だが、謙信はこのとき、能登国から関東に転戦していた[56]。
松永久秀の離反・北陸での戦い

天正5年閏7月、上杉謙信が能登に軍勢を進めた[57]。この軍事行動は、本願寺や足利義昭と連携したものであった[57]。
謙信の軍事行動に対し、信長は柴田勝家や滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉らを加賀に派遣した[56]。その結果、信長の家臣の多くが北陸に向かう結果となった[58]。
8月17日、本願寺攻めに参加していた松永久秀が、定番していた天王寺の陣を離れ、大和の信貴山城に籠城した(信貴山城の戦い)[58]。久秀の離反の背景には、信長による筒井順慶の重用のほか、本願寺や足利義昭の調略があったとみられる[58]。
9月15日、謙信が能登の七尾城を攻め落とした(七尾城の戦い)[59]。さらに、17日に謙信は加賀と能登の国境にあった末森城を攻略したが、この間に織田勢が加賀に侵攻した[60]。
9月23日、謙信は加賀の手取川において、柴田勝家ら織田方を大いに破った(手取川の戦い)[58][60]。織田方は1,000人余りが討たれ[60]、大聖寺付近まで戦線を後退せざるを得なかった[61]。
謙信は勝家らを破ったあと、9月26日に七尾城に入り、能登の平定にあたった[58][60]。なお、謙信は9月29日付の長尾和泉守に宛てた手紙の中で、信長の軍を「案外ニ手弱之様体(案外に手弱だ)」とし、「此分ニ候ハ、向後天下迄之仕合心安候(この分だと、今後、天下までの仕合も心安いものだろう)」と記している[62]。このことから、謙信はさらに西に進み、信長を討伐することを本気で考えていた可能性がある[62]。
10月10日、久秀は織田方による信貴山城攻撃を受けて、城を焼き払い、自害し果てた[63]。翌日、久秀の首は近江の安土城に送られた[63]。
12月、謙信は越後の春日山城に帰還した[64]。だが、謙信は織田方に勝利したことにより、本国の越後のほか、能登・越中・加賀、さらに越前半国をも支配し、信長にとって脅威であり続けた[65]。他方、謙信は顕如ら本願寺にとって、頼もしき同盟者であった[59][注釈 6]。
上杉謙信の死・第二次木津川口海戦
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が上洛を果たさぬまま、病死するに至った[66]。その死後、養子の上杉景勝と上杉景虎による上杉氏を二分する家督継承争い(御館の乱)が起き、景勝が勝利したものの、上杉氏は対外出兵する力を失った[66]。
6月26日、九鬼水軍の長である九鬼嘉隆らの船団が伊勢大湊を出発し、大坂へ向かった[67]。木津川での敗戦後、信長は嘉隆に大砲を装備した黒船を建造するよう命じ、滝川一益にも白船を一艘建造させていた[67]。
雑賀衆はこれを迎え討つべく、淡輪(現・大阪府岬町)周辺の海上でこの船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した[67]。しかし、嘉隆はこれに応戦し、大砲も使って敵船の多くを撃沈した[67]。
7月17日、船団は堺に着岸すると、翌日から大阪方面に航行し、本願寺への海路を遮断し、厳重に警戒した[67][68]。
11月6日、毛利水軍が本願寺を支援すべく、600余艘を繰り出して、再び木津川河口に現れた[69]。信長軍は九鬼嘉隆の大船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも焙烙・火矢で攻撃を繰り返した[69]。
しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に、大船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法をとり、相手を打ち崩した[69]。そして、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖に追い返すことに成功した(第二次木津川口海戦)[69]。
従来、織田軍はこの戦いで大勝し、大阪湾を封鎖したとされてきた[68][70]。だが、毛利氏も「この戦いに勝利した」という認識を持っていた(『毛利家文書』)[68]。以後、毛利水軍の本願寺支援が続いていることからも、織田方はこの戦い接戦の末に制したというのが実情とみられる[68]。
荒木村重の離反・毛利輝元の上洛断念

天正6年(1578年)10月、摂津における本願寺討伐の要であった荒木村重が有岡城で離反したことによって、信長の対本願寺戦略に重大な狂いが見えてきた(有岡城の戦い)[71]。毛利輝元は村重のために、湯浅氏や末国氏、細川氏、宍戸氏、桂氏、三上氏、乃美氏、粟屋氏、河田氏、甲田氏、磯兼氏、平賀氏、木下氏、児玉氏、大多和氏ら配下の諸将を援軍として、摂津に送っている[72]。
時を同じくして、羽柴秀吉が播磨において、別所氏の籠城する三木城を攻めていた(三木合戦)。だが、摂津に上陸した毛利勢が三木城に兵糧を運び込む恐れも出てきた。これを機に、信長は朝廷を動かして、本願寺や毛利氏との和解を試みた[71]。
11月4日、信長が朝廷を動かした結果、本願寺に対して信長と講和するように正親町天皇の勅命が下され、勧修寺晴豊と庭田重保[注釈 7]が勅使として[74][75]、摂津平野に下向した[71]。信長としては、村重を再三説得するための時間稼ぎでもあった[74]。
勅使が和解を勧告すると、本願寺は信長との和睦は飲めるが、輝元とは「近年の芳志」があるとして、本願寺単独での和睦を拒否した[75][71]。そのため、信長は本願寺のみならず毛利氏とも和睦する方針を取り、輝元に対しても勅使の派遣を計画した[75]。
しかし、その直後の11月6日、織田水軍が第二次木津川口海戦において毛利水軍に大勝し、11月24日に茨木城が開城すると、信長は朝廷へ使者を急遽飛ばし、毛利氏への勅使派遣を中止させ、和平交渉を取りやめた[76]。その後、信長は村重攻略を進め、また村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、反乱自体は長期にわたったものの、本願寺攻略への影響は最小限に留まった。
このような状況下、輝元自らが軍勢を率いての上洛が計画されるようになった[77]。そして、12月に輝元は出陣を決意し、その出陣の日は天正7年(1579年)1月16日と定められ、諸将に下令された[78][79]。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田軍の兵力を引き付けるよう要請している[79]。
だが、輝元の上洛計画は毛利氏内部の動揺によって、期日を過ぎても実行には移されなかった[80][79]。これは、正月に毛利氏の重臣・杉重良が豊後の大友氏の調略によって謀反を起こし、毛利氏の背後である筑前や豊前に暗雲が垂れ込めていたからである[79]。
5月、本願寺坊官の下間頼廉が毛利配下の三上元安に対し、有岡城は当面安全であるとしつつも、輝元の出陣をできるだけ急ぐように依頼している[81][注釈 8]。だが、輝元が動くことはなかった。
輝元が上洛を断念した影響は大きく[82]、結果的に備前の宇喜多氏らの離反にもつながる形となり[83][84]、毛利氏は本国の防衛に舵を切らざるを得なかった[84][85]。そのため、毛利氏は大坂や摂津といった最前線から軍勢を引き揚げはじめるようになった[84]。これにより、大坂防衛を担っていた毛利氏の将兵が大坂から本国に帰還してゆき、本願寺は孤立してしまった[84]。本願寺は必死に毛利氏の将兵の引き留めにあたったが、無駄であった[86]。
輝元が上洛を断念したことは、自らが救援するはずだった三木の別所氏、摂津の荒木村重のみならず、大坂の本願寺をも見捨てることを意味していた[83][87]。
勅命講和

毛利氏の支援も見込めなくなったことによって、本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めたほか、天正7年11月には有岡城が陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあって、12月には恒久的な和議を検討するようになり、朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を密かに伝えた。その動きを期待していた信長側でも同月より、朝廷に講和の仲介を働きかけていた[88]。
そのため、12月25日に正親町天皇が女房奉書を下し、両者の和睦を促している[89]。朝廷が和睦仲介に乗り出したのは、本願寺が朝廷の宗教統制の下にあったからである[90]。
天正8年(1580年)1月、三木城が落城した[85]。毛利輝元や武田勝頼の苦戦、上杉氏の没落、有岡城や三木城における虐殺などによって、本願寺内には厭戦気分が高まっていた[89]。
そのような状況の中で、3月1日に朝廷は勧修寺晴豊・庭田重保・近衛前久を勅使として派遣し、本願寺側との妥協点を探った[91][92][注釈 9] 。この時、信長は佐久間信盛と松井友閑を目付として、勅使に従わせた[94][95]。また、前久は開戦の経緯を知る人物であり、信長から本願寺との講和交渉で期待されていた[注釈 10]。
勅使の派遣を受け、本願寺では顕如と年寄衆、坊官の下間氏らによる評定が行われ、和議を推し進めることで合意した[94]。この頃、本願寺の劣勢は誰の目にも明らかであり、顕如らは本願寺の存続を危惧する状況に陥っていた[88]。本願寺は孤立しており、織田方が優勢な状況となった今、少しでも有利な条件で和平を結ぶのが得策であった[88]。
また、天正6年に信長から講和が持ち掛けられた際、本願寺は毛利氏との盟約によって単独での講和を拒否したが、それは檄を発した足利義昭に義理立てするためであった[96]。だが、本願寺の存続が危惧されるこの状況で、信長から存続を許された今、義昭に義理立てする必要はなくなった[97]。本願寺は室町幕府の将軍と密接な関係にあったが、その因縁を断ち切るためにも、天皇の存在が必要であったと考えられる[97]。
そして、本願寺と織田方との10年にわたる戦いで多くの門徒が戦死していることから、顕如としても天皇の勅命による形での講和は面目が立ち、門徒に顔向けできるものであった[98]。以上の経緯から、「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものといえる。
3月17日、信長が本願寺を惣赦免するとの血判起請文を作成し、勅使に提出した[89]。これは顕如の大坂退去や、尼崎城や花隈城を明け渡すなど本願寺への事実上の降伏勧告であった[89]。
閏3月5日、顕如が信長の出した起請文を受諾し、勅命講和となった[89][87]。顕如は下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝を通じて、勅使に信長からの条件を受諾する旨の起請文を提出した[97]。
顕如は講和に応じた理由として、このまま戦い続けたとしても有岡城や三木城と同様の虐殺が起こりうると懸念したことを、末寺や門徒らに伝えている[89]。これは、信長が顕如に恐怖を与えた結果であり、門徒らも顕如の方針に理解を示したとみられる[99]。
こうして、信長と本願寺は3度目の講和を果たした。条件は顕如や門徒の大坂退城、退城後の織田方からの加賀国の江沼郡・能美郡の返還など、以下の通り。
覚
一 惣赦免事
一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事
一 人質為気仕可遣之事
一 往還末寺如先々事
一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事
一 月切者七月盆前可究事
一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事
三月十七日 朱印(信長)
(「本願寺史」本願寺史料研究所編纂 浄土真宗本願寺派<西本願寺>発行)
この他、『信長公記』には退城の期限が7月20日だったと記されている[94]。また、講和条約に署名したのは、顕如の3人の側近である下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝だった[94]。阿弥陀如来一仏を信仰する本願寺派の法主である顕如としては、神々に誓約する牛王宝印に署名などできなかったからである。
また、信長と本願寺の交渉の影には、森蘭丸の母の妙向尼がいた。妙向尼は和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った。蘭丸を通じて情報を得た妙向尼は信長と面会し、直談判をして信長による本願寺攻撃を断念させた。信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した[100]。
顕如の大坂退去・教如の抵抗
4月9日、顕如は本願寺を嫡子で新門跡(門跡の子という意味)の教如に渡し、大坂から紀伊の鷺森御坊に退去した[89]。
しかし、雑賀や淡路の門徒は本願寺に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申しており、教如もこれに同調していた[101]。加えて、足利義昭を支持する勢力が教団内部にいたとみられ、その意向も無視できなかった[102]。故に、顕如が本願寺を去った後も、本願寺は信長に抵抗する教如勢が占拠し続けた(大坂拘様)[101]。
教如は閏3月下旬より、諸国の門徒に対して書状を出し、大坂籠城のために尽力するように訴えていた[103]。また、顕如が退去する2日前の4月7日、義昭は教如の決起を受けて、毛利輝元に援軍を送るよう御内書を出している[103]。義昭も教如と同様、信長と本願寺の和睦に反対していた[103]。
5月20日、教如は義昭に対し、輝元に援軍を命じたことについて、その旨を感謝する書状を送っている[103]。教如と義昭が連携していたことは事実であり、信長と義昭の対立構図が本願寺教団の内部に及んでいたとみられる[103]。
4月から6月にかけて、顕如は鷺森から諸国の門徒に対して、大坂退去の事情を伝えるとともに[注釈 11]、抵抗を続ける教如を非難した[104]。教如もこれに対し、顕如が諸国の門徒に大坂を支援しないように命じていると非難し、自身の大坂籠城に協力するように求めている[104]。
他方、顕如の大坂退去を契機として、織田方と毛利方との間で和睦の動きがみられるようになった[105]。5月12日付の棚守房顕宛て安国寺恵瓊書状(巻子本『厳島文書』)によると、丹羽長秀と武井夕庵が毛利方に対し、和睦の条件の一つとして、義昭を「西国之公方」として認めることを提示している[106]。
織田方と毛利方で和平交渉が行われた背景には、教如が大坂で、荒木村重が摂津でそれぞれ抵抗を続けたため、講和の条件である大坂・尼崎・花隈の明け渡しができない状況に陥ったことがあげられる[107]。また、大坂・尼崎・花隈には、本願寺門徒や村重の被官、摂津の百姓のみならず、毛利氏や雑賀衆に属する者も籠城していた[108]。そのため、輝元やその庇護を受ける義昭との合意も必要となり、信長が義昭を「西国之公方」として認めるという譲歩を行ったとみられる[107]。
この交渉には明智光秀、さらには近衛前久や勧修寺晴豊ら公家衆も加わっており、現実味を帯びて交渉がなされたが、和平は実らなかった[109]。これにより、信長は毛利氏を討伐すべく、羽柴秀吉を中心とする軍勢による中国地方攻略を本格化させた[110]。
教如の大坂退去・本願寺の焼亡
7月2日、顕如は3人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った[111]。これと前後して、荒木村重が花隈城の戦いに敗れるなどの情勢の変化もあり、教如には近衛前久による再度の説得工作も行われた[111]。そのため、教如も和睦に傾くようになった[104]。
7月17日、信長が教如に対し、「加賀国については大坂退城後、何事もなければ返付する」と誓約したこともあり、教如もついに本願寺からの退去を受け入れた[112]。
8月2日、教如が本願寺を出て、大坂から雑賀に退去した[113][111]。これにより、本願寺は信長のものとなった[111][114]。
しかし、四方から和睦に反対する「乱妨人共」が、織田方の奉行衆の制止を突破して本願寺に乱入した結果、出火するに至った[114]。三日三晩燃え続けた火は、翌日までに本願寺を完全に焼き尽くした[113]。
その火事の原因については、史料によって異なる記載がなされている。『信長公記』では、松明の火が風で燃え移ったとされている[115]。『多門院日記』には、「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂されたとある。そのため、教如が本願寺を退去すると同時に、寺が焼けるよう準備してあったとする見方がある[113]。
8月、佐久間信盛が信長から折檻状を突きつけられ、織田家中から追放された[116]。信長はその理由の1つに、信盛が本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げている[116]。
戦後の影響
本願寺の東西分裂
顕如の退去後、教如が講和に反して本願寺に居座り続けたため、宗門内は顕如派と教如派の2派に分かれてしまい、顕如も誓約違反を問われることになってしまった。結局、教如も本願寺を出ることで、内紛には決着がついた。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の信長の死の直後、顕如と教如は朝廷の仲介により和解した[117]。だが、後に顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し、三男の准如を嫡子と定めたようである[117]。
文禄元年(1592年)11月、顕如が死没すると、教如が本願寺を継いだ[117]。だが、如春尼(顕如の妻、教如・准如らの母)らが顕如の遺志にもとづき、弟の准如に継がせたいといって秀吉に働きかけた[117]。そのため、翌年(1593年)に教如は秀吉から隠居を命じられ、准如がその跡を継いだ[117]。
しかし、教如はその後も大坂の大谷本願寺(難波御堂、現在の真宗大谷派難波別院)を本拠地として、各地の門徒へ本尊の下付などの法主としての活動を続けた。そのため、本願寺はこの時点で、准如を支持する派と教如を支持する派に事実上分裂した。
慶長7年(1602年)、教如は以前より昵懇だった徳川家康による土地の寄進を受け、京都の七条烏丸に東本願寺を建てた[117]。これにより、本願寺は完全に東西に分かれることとなった[117]。
加賀一向一揆の滅亡
序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。
講和条件の「如在無きに於いては(=従順でいるならば)加賀江沼・能美2郡を本願寺に返付する」という条項については、実現されることはなかった。というのは、教如が抗戦を呼びかけたため、加賀一向一揆と信長の重臣・柴田勝家の交戦は続いたからである。
信長と顕如は停戦を命じたものの戦闘は続き、天正8年(1580年)11月17日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、天正10年(1582年)3月には白山麓鳥越城の一揆が鎮圧されて「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えた。