保甲制度
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清代以前
清朝の保甲制度
清朝は、明朝の里甲を参考に、保甲の制度を基層組織として創設した[2]。明朝の里甲は専ら地方の賦税の徴収を管理したが、保甲は人民の思想行動を監視し、反抗の防止と鎮圧の責任を負った[2]。清朝の統治者は、再三再四「盗ヲ弥(とど)ムル良法ハ、保甲ニ如クハナ無シ」と言明し、特に康熙帝は、聖諭十六条において、「保甲ヲ聯ネ以ッテ盗寇ヲ弥ム」を施政方針の一つとした[2]。康熙47年には、各戸に「印信紙牌一張ヲ給シ、姓名丁男ノ口数ヲ書写シ、出ヅレバ即チ往ク所ヲ注明シ、入レバ即チ其ノ来タリシ所ヲ稽(かんが)ヘ、面生ノ疑フベキ人ハ、盤詰ノ的確ナルニ非ザレバ容留ヲ許サズ・・月底(月末)ニハ保長ヲシテ無事キヲ具セル甘結(官庁に出す保証書・誓約書)ヲ出シ、官ニ報ジテ査ニ備ヘ令ム」と定めた[2]。雍正4年、さらに「十戸に一牌頭を立て、十牌に一甲長を立て、十甲に一保正を立つ」と規定した[2]。少数民族居住地、山間地帯から人口密集地の隅々に至るまで保甲制は敷かれた[2]。保甲の長にはすべて「識字及び家柄を有する人」をあて、いわゆる「士大夫を以って其の郷を治む」ものであった[2]。
日本軍による上海租界占領と保甲制度
1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中両国が全面戦争状態に入った後、日本軍はその翌月、早くも第二次上海事変を起こし、中国軍との間に3カ月以上にわたる激しい攻防戦を行い、ついに租界を除く上海全域を陥落させた[3]。その後租界に一定の配慮を示しつつも、およそ4年間にわたって租界を「孤島」として包囲し、各分野において内部への浸透を図っていた[3]。1941年12月8日、日米開戦するや否や、即日フランス租界以外の共同租界区域に進駐し、以後1945年の日本の降伏まで支配を続けた[3]。進駐後まず行ったのが、生活物資供給などを理由に憲兵隊による市内への移住の制限であった。次いで翌年の1月までに、非生産人口を強制的あるいは半強制的に故郷に帰還させた[3]。この人口疎開に続いて行われたのが、全市民を対象とする戸籍調査と戸籍登録である。300万人近い人口の調査、登録は上海史上初めてのことであり、これによりすべての住民が一気に統治当局の管理と管轄下におかれた[4]。さらに5月に入ると、保甲制度を実施し、イギリス・アメリカの両租界が、それぞれ400保、4854甲と1038保、4499甲に編成され、甲の内部に連座制を適用した[4]。