信夫恕軒
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鳥取藩医・信夫正淳の子[1]。江戸芝金杉(現東京都港区)の藩邸に生まれる[1]。信夫家は代々因州鳥取池田藩の侍医だった[2]。兄尚貞[3]は藩医として五人扶持三十俵をうけていた[4]。
二歳のときに父を亡くす[2]。家庭生活には恵まれず、衣食も欠乏するほどであったが、幼少のころから学問を好み作文に長じ、飢えや寒さにひるむことなく学業にはげんだ[2]。海保漁村・芳野金陵・大槻磐渓に就いて経史、文辞を修めた[4]。
医術を誰に学んだかわからないが、学成って初め下野の真岡(栃木県真岡市)に流寓し、北総を経て平塚村(茨城県結城郡)に寄寓しており、その頃が恕軒の三十才前後だと言われている[4]。
明治になって東京の江東本所(現墨田区)で奇文欣賞堂という塾を開いて、漢学を教えた[1]。
東京大学より招かれて講師となる。その後、三重県立中学校教官、和歌山県の中学校教官を経て東京に戻り、小石川武島町(現文京区)に住んだ[1]。明治43年(1910年)12月11日、中風のため小石川区小日向武島町の自宅で死去[5][6]。
人物像
性格は偏狭で短気であった[1]。師の一人である羽倉簡堂の言として「信夫生顔紫黒にして、眼光閃燦人を射り、音吐鐘の如く、言語朴直、気岸人より高く、諤諤人を罵る。左右回観するに、一も愛すべき者無きなり。然れども余則ち之を愛す」、と恕軒本人の著『恕軒漫筆』にある[7]。友人だった依田学海は「気象が磊落で、飾るところがない」「節倹で奢らない」と評する[8]。毀誉褒貶の多い人だけに友人は少なく、終生の友として成島柳北の名があげられる[4]。
才気横溢かつ雄弁であり、赤穂浪士の講話を得意とし、「赤穂にいた時に、前原宗房がやかんのお湯を頭からかぶって火傷した」「吉良邸を探索中の岡野包秀が、泥棒と思われ町人たちから袋叩きにされた」など臨場感に満ち、聴衆の中には泣き出すものがいるくらいであった。ただし、彼の「義士実談」の中には、赤穂義士に助勢加勢するものは皆無であった[9]、奥田重盛が切腹の作法を知らなかった、介錯に失敗し二度斬りされた武林隆重が大声を出した、流罪になった赤穂義士の遺児らが、莚や苫を造る労働をさせられた[10]等とも記され、いわゆる英雄伝説を否定し、義士美化を批判した内容も多分にある[11]。