値賀忠治
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山形県[1][3]、現在の山形市で[2]、前田保の二男として生まれ値賀勇雄の養子となる[4]。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業[1][5]。同年12月、歩兵少尉に任官した[5][6]。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した[1][3][7]。
1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となった[6]。1926年(大正15年)8月、航空兵中佐に昇進[6]。1928年(昭和3年)8月、下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員に就任[6]。1930年(昭和5年)8月、航空兵大佐に昇進し陸軍航空本部第2課長に就任[3]。1932年(昭和7年)4月、飛行第8連隊長に転じた[3]。1933年(昭和8年)8月、浜松陸軍飛行学校長に就任し、1935年(昭和10年)8月、陸軍少将に進級し同校幹事となる[1][3]。
1936年(昭和11年)8月、第3飛行団長に転じ[3]、第一次上海事変の勃発により上海派遣軍隷下として出征した[1]。1938年(昭和13年)7月、陸軍中将に進み陸軍航空技術学校長に発令されて帰国[1][3]。1939年(昭和14年)8月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][3]。
その後、日本無線常務を務めた[2]。1981年12月、老衰のため大田区の東京都立荏原病院(現東京都保健医療公社荏原病院)で死去した[2]。