儒礼尼師今
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治世
286年1月に百済が講和を求めて使者を送ってきた。この後、295年春に倭への対抗の必要から百済と和することを群臣に諮ったが、舒弗邯(1等官の伊伐飡の別名)の弘権の反対を受けて、百済との和親を見送った。倭との交戦については、
- 287年4月、倭人が一礼部[1]に来たり、集落に放火して周り、1千人を捕虜にして立ち去った。
- 292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させた。
- 294年、倭兵が長峯城を攻めたが、勝てなかった。
などとあり、また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。
297年、伊西国(伊西古国とも。慶尚北道清道郡)に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力を得てこれを退却させることに成功したという。
在位15年にして298年12月に死去した。埋葬地は伝わらない。
