儒理尼師今
新羅の第3代の王
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即位まで
紀元24年9月以降に南解次次雄が死去したとき儒理は太子の位にあったが、妹婿であり大輔の位にあった昔脱解(後の脱解尼師今)が徳望を備えていたので脱解に王位を譲ろうとした。脱解は「聖人は歯が多いと聞きます。あなたと私とで餅を噛んでみて、歯の数を調べてみましょう。」と答え、儒理のほうが歯が多かったので国人は儒理を王に立て、尼師今と号した。
治世
28年11月、役人に命じて国内の寡婦・寡夫・独り身の者・老人などに食料を与えて養ったため、隣国から新羅に移入するものが多かった。
32年、元の六村(六部)の名を改めて、それぞれに姓を与えるとともに、17等の官位を整備したとされる。
36年、楽浪の兵が北辺に攻め入り、朶山城(京畿道安城市二竹面)が奪われた。翌37年に高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼすと、楽浪の民5千人が新羅に流入した。これらの民は六部に分けられて住まわされた。
40年9月、先に楽浪から独立していた濊の治める華麗県・不耐県が新羅の北辺に攻めてきたが、貊国が出兵してこれら二県の兵を打ち負かした。儒理尼師今はこのことを喜んで、貊国と好を通じることとした。42年8月には貊国の首長が禽獣を献上してきた。『三国遺事』によれば、この年に伊西国を討滅し、高句麗から侵攻されたとする。
57年9月に在位34年にして病に倒れ、脱解を王位につけるように訓示を残して10月に死去した。父南解次次雄と同じように、始祖赫居世の陵である虵陵(現在地未詳)の域内に葬られた。
王号について
歌楽として伝えるもの
参考文献
- 金富軾撰、井上秀雄訳注『三国史記』第1巻、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年 ISBN 4-582-80372-5
- 一然撰、坪井九馬三・日下寛校訂『三国遺事』<文科大学史誌叢書>東京、1904年(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)