元均
From Wikipedia, the free encyclopedia
元均は、1567年武科に及第してから、宣伝官を経て、李鎰と共に咸鏡道に派遣され、造山堡万戸として勤めた。1583年北方の女真の部落の討伐に参加し、そこで特に功をなしていた訳ではないが、その後に何故か富寧府使へ特進した。勇猛な性格であったとされるが、そのことは『宣祖実録』に特筆されるほどであった。[要出典]
1592年、文禄の役開始2カ月前に慶尚右道水軍節度使に任命され、朝鮮水軍の司令官となる。4月にいざ日本軍が大挙して押し寄せると戦わずして逃走するが、その後は、全羅左道水軍節度使の李舜臣らと共に日本水軍と戦った。しかし猪突猛進ともいえる性格の元均と、文人的な一面のある李舜臣とは肌が合わない面があったようだ。[要出典]李舜臣の『乱中日記』で「天と地の間にはこの元均のように凶悪で常軌を逸した人はいないだろう」[2]などと酷評されている。
慶長の役では、讒言により失脚した李舜臣に代わり、三道水軍統制使となって朝鮮水軍全軍の指揮権を握った。しかし巨済島海戦(漆川梁海戦)で、藤堂高虎ら率いる日本水軍に強襲され、大敗。跡形もなく失踪し、戦死したものと処理された(生存説もある[3] )。
後に左賛成(従一品)に追叙され、原陵君に追封された。
評価
気性が荒く部下にも厳しかったことや讒言により李舜臣を陥れた疑惑など、文献で手酷く酷評されているために、国民的英雄とされる李舜臣に比べて現代の評価は著しく低い。
文禄・慶長の役の際、慶尚監司の参謀であった李鐸英が著した「征蠻録」には、次のような記述が見られる。すなわち、日本軍が朝鮮の婦女子や子どもを捕らえて日本へ連行したところ、関白であった豊臣秀吉がこれを叱責し、本国へ送り返すよう命じたという。しかし、水使の元均がその船を拿捕し、「我々は朝鮮人だ、どうか助けてほしい」と泣き叫ぶ女性や子どもたちの首を斬った、という内容である[4]。
「元陵君記念館」を通じて正しい歴史を学び、元均の再評価を求める宗親会側の立場があるものの、戦時中の行動や人柄をめぐる問題から、現在でも主流の評価からは距離を置かれている[5]。