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李舜臣

李氏朝鮮の軍人 From Wikipedia, the free encyclopedia

李 舜臣(り しゅんしん、イ・スンシン、이순신(南)/리순신(北)[1]、1545年4月28日〈明暦:嘉靖24年3月8日〉- 1598年12月16日〈明暦:万暦26年11月19日〉[2])は、李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(じょかい、ヨヘ、여해)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍し、後の大韓民国(韓国)では「救国の英雄」とされている。

生誕 (1545-04-28) 1545年4月28日
朝鮮国漢城府乾川洞
死没 (1598-12-16) 1598年12月16日(53歳没)
朝鮮国慶尚道南海県郡内面観音浦付近
所属組織 朝鮮水軍
軍歴 1576 - 1598
概要 李 舜臣이순신, 生誕 ...
李 舜臣
이순신
生誕 (1545-04-28) 1545年4月28日
朝鮮国漢城府乾川洞
死没 (1598-12-16) 1598年12月16日(53歳没)
朝鮮国慶尚道南海県郡内面観音浦付近
所属組織 朝鮮水軍
軍歴 1576 - 1598
最終階級 正二品
配偶者 正室・溫陽方氏(貞敬夫人)
側室・海州呉氏
子女 嫡子:李薈(朝鮮語版)、李䓲(朝鮮語版)、李葂(朝鮮語版)、女(洪棐室)
庶子:李薰(朝鮮語版)、李藎(朝鮮語版)、女(任振室)、女(尹孝全室)
親族 父・李貞
母・草溪卞氏
兄・李羲臣、李堯臣
弟・李禹臣
墓所 牙山李忠武公墓
署名
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ハングル: 이순신
チョソングル: 리순신
漢字: 李舜臣
発音: イ・スンシン (南)
リ・スンシン(北)
概要 李 舜臣, 各種表記 ...
李 舜臣
各種表記
ハングル: 이순신
チョソングル: 리순신
漢字: 李舜臣
発音: イ・スンシン (南)
リ・スンシン(北)
日本語読み: り しゅんしん
英語: Yi Sunshin
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朝鮮内の党争[注釈 1]の影響で李の対立側である元均らの勢力によって、懲罰を受けて兵卒に落とされ一時失脚していたが、軍を率いていた元均が戦死したことで危機感を抱いた朝鮮王によって復権し、再び水軍を指揮して日本軍と戦った。その後、露梁海戦で戦死した[3]。死後に贈られた諡は忠武公(충무공)。

生涯

李舜臣の書いた「必死卽生、必生卽死(死を覚悟すれば生き、死を避けて生きようとすれば死ぬ)」

生い立ち

本貫は徳水李氏。京畿道開豊郡の出身で、漢陽(別名:漢城、現:ソウル特別市)の乾川洞(現:中区乙支路)に生まれた。後に、朝鮮の領議政(現在の首相に相当)となる3歳年上の柳成龍も同地で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲にあった[4]。

李舜臣の父が官職に就けなかったため家は貧しく、生活が困難であった。そのため母方の実家がある忠清南道・牙山の白岩里へ移住し、以後この地が彼の故郷のように扱われるようになった[5]。

幼少期の李舜臣は、近所の子どもたちと遊ぶ中で特に戦ごっこを好み、その際にはしばしば仲間から大将役に推された。また弓矢を好んで携え、常に身近に置いていたとされる。さらに、村の大人であっても道理に反する行いがあれば率直に諫めたため、周囲から一目置かれる存在であった。このような振る舞いから、幼少期より剛直な気質を備えていたと伝えられている[5]。

李舜臣は1565年8月、元保城郡守であった方震の娘と結婚した。方震は武官出身で、保城郡守を務めた後は官職を退き、地方で余生を送っていた人物であり、そのもとには一人娘がいた。彼は武人として気概のある性格と一定の財力を持ち、李舜臣の人物像や資質を高く評価して婚姻を進めたとされる。また、結婚後には李舜臣に対して武官としての道を勧めたとも伝えられる[6]。

その後、22歳頃から本格的に武芸の鍛錬に取り組むようになったとされる[6]。

武科及第

7年間の武芸修練を経て、28歳となった1572年8月、訓練院が主催する別科の武科試験を受験したが、この初回試験では不合格となった。騎射の試験中に落馬する失敗を経験したとされるが、その後も試験を続行し、立ち上がって柳の枝を折り、その皮で傷を縛った上で最後まで試験を完遂したと伝えられている[7]。

李舜臣はその4年後、32歳のときに武科に及第した。このときの試験は、初回に受験した別科とは異なり、3年ごとに実施される国家試験(科挙)である式年武科であった[7]。

当時の合格者は29名であり、李舜臣は丙科4等の成績で合格した。これは特に上位の成績ではなかったが、合格者の多くが体系的に騎馬術を訓練した現役軍人であったことを考慮すると、一定の評価を得た合格であったとされる[7]。

官職生活

李舜臣は武科及第後、最初の官職として咸鏡道三水に赴任し、辺境の要地である東仇非堡の権管(従9品)を務めたとされる。この地域は女真の侵入もあり得る国境地帯であり、彼は堡塁の設置や住民保護など防衛任務にあたった[8]。

当時の咸鏡監司・李後白は各鎮を巡察して軍紀を厳しく査定したが、李舜臣の統率する東仇非堡は規律が整っているとして高く評価したと伝えられる。また李舜臣は、監司の厳格な処罰が現場の将兵に過度な負担を与えていると進言し、これに対して李後白はその意見を受け入れ、李舜臣の見識と統率力を称賛したとされる[8]。

李舜臣は咸鏡道での3年間の任期を終えた後、従8品の漢城・訓練院奉事に昇進し、人事業務など軍政実務に従事したとされる[8]。

訓練院には直属の上官として兵曹正郎・徐益がおり、彼から親族の参軍任用について規定外の昇進を求める働きかけがあったが、李舜臣は公平性を理由にこれを拒否したと伝えられている。この対応により徐益との関係は悪化した一方で、同僚からは公正さとして評価されたともされる[8]。

また兵曹判書・金貴榮から縁戚関係を通じた婚姻の提案を受けたが、これも拒否したとされ、権勢との結びつきを避ける姿勢を示したとされる。その後、訓練院奉事として約8か月勤務した後に職を離れたと伝えられている[8]。

李舜臣は同年10月、忠清道兵馬節度使の軍官となり、兵営のある海美へ赴任した。海美は元来、貞海県と余美県が統合されて成立した地域である[8]。

同地での勤務中、李舜臣は私室に衣類と寝具のみを置いて生活するなど、清廉な態度で知られたとされる。また休暇で帰郷する際には兵士の食糧を必ず返却し、その厳格な姿勢は兵士からも敬意を集めたと伝えられている[8]。

さらにある時、兵馬節度使が酒に酔って私的な巡視を提案したが、李舜臣はこれを規律違反として諫め、同行を拒否したとされる。この逸話は、上官に対しても規律を重んじる姿勢を示すものとされている[8]。

李舜臣は1580年6月、36歳で全羅道高興の発浦水軍万戸(従4品)に任命され、初めて水軍指揮官として勤務することとなった。赴任当初、全羅監司・孫軾は李舜臣に対する風聞から誤解を抱いていたが、陣説の講釈や陣図の作成を通じてその能力を認め、以後は態度を改めたとされる[8]。

その後も李舜臣は規律重視の姿勢を貫き、上官による私的目的での官物使用の命令を拒否するなどしたが、これが上官との軋轢を生む要因となった。また、後任の全羅左水使・李用による評価や報告の偏りに対しても不当性を指摘するなど、軍務の公正性を重視した行動を示したとされる[8]。

しかし1582年2月、過去に因縁のあった徐益が軍器敬差官として派遣され、軍備不備の虚偽報告を行った結果、李舜臣は発浦万戸を解任されるに至ったとされる。この処分は表向きの軍紀問題というより、個人的対立の影響が強いと受け止められていたと伝えられている[8]。

李舜臣は発浦万戸を解任された後、1583年5月に漢城の訓練院奉事へ復帰し、職務を遂行したとされる。同年12月には兵曹判書・李栗谷(李珥)からの面会要請があったが、同門であっても兵曹の長としての立場を考慮し、これを辞退したと伝えられている[8]。

その後、かつての上官であった李用が咸鏡道兵馬節度使として赴任し、李舜臣を軍官に登用した。1583年10月には辺境の乾源堡権管として赴任し、女真の侵入に対して策を用いて撃退したとされるが、この功績は北兵使の反対により正式な褒賞には至らなかった。その後、父の訃報を受けるが、服喪中も国事により早期復帰を求められるなど、継続して任務への対応を迫られたとされる[8]。

李舜臣は1586年1月に司僕寺主簿となった後、16日で咸鏡道慶興の造山堡万戸へ転任し、1587年には鹿屯島屯田官を兼任した。女真の襲来に対し応戦し、住民約60名を救出するなどの戦果を挙げたが、この戦闘で朝鮮側は将校を含む戦死者が発生し、李舜臣自身も右脚に矢傷を負ったとされる[8]。

しかし北兵使・李鎰の報告により李舜臣の責任が強調され、実際の損害状況とは異なる形で中央に伝えられた結果、処罰対象となり白衣従軍の命を受けたとされる。その後、翌年の対女真戦で敵拠点を制圧する戦功を挙げ、復権したのち1588年に帰郷した[8]。

1589年2月、全羅道観察使となった李洸によって軍官兼助防将に任命され、7年ぶりに官職に復帰した。その後、宣伝官を経て同年12月に全羅道井邑県監、さらに泰仁県監を兼任したとされる。井邑県監在任中には家族や親族の扶養にもあたり、私的事情よりも公務を優先する姿勢を示したと伝えられている[8]。

1590年以降は各地の軍職を転任した後、朝廷の軍備強化方針と不抜擢用の方針の下で急速に昇進し、最終的に全羅左水使(正3品)に抜擢された[4]。これは柳成龍らの推薦によるものであり、異例の昇進として議論もあったが、国防強化の方針により任命が維持されたとされる[8]。

文禄の役

倭寇に捕らえられた後に帰還した朝鮮人たちの証言を通じて、日本の内部動向を収集・検討した結果[9]、李舜臣は戦争の勃発を事前に予見し、それに備えるため1592年1月1日から『乱中日記』の記録を開始したとされる[10]。

李舜臣は全羅左水営とその配下の五官・五浦を整備し、武芸訓練を実施した。また石垣を築いて日本軍の侵入に備えた[11]。文禄の役勃発の翌日である4月15日、元均が送った公文により開戦の事実を報告として受け取り、翌日に釜山陥落の知らせを聞いて、憤りと悲しみを抑えきれなかったとされる[12]。

第一次出撃

玉浦海戦
1592年4月12日、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)が開始されると、慶尚道水軍は大きな打撃を受けたが、李舜臣と李億祺は全羅道水軍を温存し、当初は元均(慶尚右水使)の救援要請を拒否したとされる[13]。その後5月頃には釜山西方の日本側支配海域へ進出して巨済島東岸に停泊中の藤堂高虎・堀内氏善らの船団を攻撃し、さらに帰路でも遭遇した日本船を撃破したとされる。続いて5月7日には玉浦沖で停泊中の日本軍船団を攻撃して複数の艦船を撃破し、同日午後には合浦方面でも戦闘が発生したほか、翌8日にも赤珍浦付近で交戦が続き、日本側船舶に損害を与えた一方で、陸上へ退却した敵勢力の追撃は行われなかったとされ、これらの一連の海戦によって日本側船団は短期間に損害を受け、戦局に一定の影響が生じたとされる[14]。

第二次出撃

泗川海戦
1592年5月29日、李舜臣は泗川沖で日本軍船団と交戦し、複数の艦船を撃破したとされる。この戦闘で李舜臣は負傷した。続く戦闘でも朝鮮水軍は火力を活用して戦い、周辺海域での交戦が続いた。その後、他部隊との合流が進み、連携した作戦が展開された。
唐浦海戦
1592年6月2日、李舜臣は泗川海戦直後に唐浦へ進撃し、停泊中の日本艦隊を奇襲した。李舜臣は自ら亀甲船を率いて敵旗艦へ突入し、朝鮮水軍は日本側艦船21隻を撃破した。戦闘中、朝鮮側の将 権俊 が日本側指揮官得居通幸を射殺し、日本軍は混乱して山中へ逃走した。朝鮮水軍は艦船損失なく勝利し、その後も周辺海域で日本艦隊の捜索を続けた[15]。
第1次唐項浦海戦
1592年6月5日、李舜臣は李億祺と合流した後、唐項浦に停泊中の日本艦隊26隻を攻撃した。朝鮮水軍は円陣を組んで砲撃を加え、さらに李舜臣が偽装退却を用いて日本艦隊を湾外へ誘い出した後、包囲攻撃によってこれを壊滅させた。亀甲船による突撃と火攻めにより日本側艦船は全滅し、一部の日本兵は陸上へ逃走した。戦闘後、朝鮮水軍は周辺海域で敵船の捜索を続けた後、各拠点へ帰還した[16]。
栗浦海戦
1592年6月7日、李舜臣は栗浦方面へ逃走する日本艦隊を追撃した。朝鮮水軍は逆風の中でも追撃を続け、日本側艦船5隻を撃沈し、2隻を拿捕した。戦闘では 鄭運 ・魚泳潭 ら諸将が活躍し、多数の日本兵を討ち取ったとされる。これにより李舜臣率いる朝鮮水軍は連続勝利を重ね、当該戦域の制海権を掌握した[17]。

第三次出撃

閑山島海戦
閑山島海戦は1592年7月8日、漢山島沖で李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍と交戦した海戦である。この戦いでは鶴翼の形に似た「鶴翼陣」が用いられ、日本側船団に大きな損害を与えたとされる[18]。
この海戦の結果、日本水軍は大将船を含む59隻を失った。副将の脇坂甚兵衛や渡辺七右衛門らは戦死し、船将の真鍋左馬之助は切腹した。また、閑山島に上陸した400名と、脱出した14隻に乗っていた兵力を除き[19]、9,000余人の日本兵が戦死したとされる[20][21]。
安骨浦海戦
安骨浦には九鬼嘉隆や加藤嘉明らの日本軍42隻が停泊していた。港内は浅く朝鮮の大型戦船が進入しにくかったため、李舜臣は敵を誘い出そうとしたが、日本軍は応じなかった[22]。
そこで朝鮮水軍は戦船を交代で港内に進入させ、火砲と長片箭で攻撃を加えた[22]。終日の戦闘の末、日本軍は多数の艦船を失って陸上へ退却し、俊沙はこの戦いで投降して後に降倭となった[23]。

第四次出撃

釜山浦海戦
1592年10月、李舜臣は元均・李億祺らと三道連合水軍を編成し、第4次出撃として釜山浦を攻撃した[24]。朝鮮水軍は多大浦・絶影島を経て釜山浦へ進攻し、日本側艦船約130隻を焼討・破壊した一方、日本軍は陸上高地から鉄砲射撃などで激しく抵抗した。朝鮮側は右部将鄭運を含む6名が戦死したが、艦船の損失は無かった[25]。戦闘後、李舜臣は艦隊を撤収させ、日本軍は以後、朝鮮水軍との大規模海戦を避けて沿岸防衛を強化するようになった[26]。

これにより李舜臣率いる朝鮮水軍は連続勝利を重ね、南海岸海域において戦術的優位を確保する契機となった[27]。

その後

熊浦海戦
李舜臣の艦隊は1593年2月10日に熊川県の熊浦へ進出した。しかし日本軍は正面決戦を避け、朝鮮水軍を倭城の深部へ誘引して撃破しようとする戦術を採用したとされる。これに対し朝鮮水軍は火器による攻撃を行ったが、戦闘は長期にわたる膠着状態となった[28]。

1593年、これまでの功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。元均は、今まで部下であった李舜臣の命令を受ける立場になったことが不満で、露骨な悪意をしめすことが多々あり、朝廷に赴任地を変えてもらうように願い出た。李舜臣と元均はお互いに讒言を行うなど不和が深刻になり、朝鮮王朝は元均を陸上部隊へ転属させた。李舜臣は彼の日記の中で、「天地の間に、元均ほど凶悪で常軌を逸した人はいない」と述べている。

1594年9月から10月にかけて、李舜臣は都体察使・尹斗寿および都元帥・権慄の指揮下で、長門浦・永登浦一帯の日本軍を攻撃する作戦に参加した。李舜臣は三道水軍を率いて日本軍相互の支援を牽制しつつ攻撃を行ったが、日本軍は堅固な防御陣地に拠って応戦を避け、朝鮮軍側も軍糧不足と貧弱な上陸戦力に苦しんだため、大きな戦果を挙げることはできなかった。朝鮮水軍は日本船2隻を撃沈したものの、不意打ちにより1隻が焚滅され、3隻が行方不明となる損害を受け、作戦は明確な戦略的成果を得られないまま終了した(場門浦・永登浦海戦)[29]。

李朝の尹鑴が書いた白湖全書によると、朝鮮王朝内では膠着状態の間に対立があり、李舜臣が海戦での勝利に焦っているとの批判が強まって、元均などの反李舜臣勢力のデマなど中傷が効果を発揮して、朝廷は体察使(監査)の李元翼を送って、李舜臣の査問が行われた。李舜臣は留任となったが、精神的に疲弊した。一方で日本側も朝鮮水軍の襲撃により巨済島に兵糧が届かず、このことを懸念する旨を島津義弘が書状に記している[30]。

白衣従軍

1597年1月11日、小西行長の配下であった要時羅は、慶尚右兵使の金應瑞に接触し、自らの主君である小西は講和を望んでおり、講和交渉を決裂させた加藤清正を除かなければこの戦争は終わらないと伝えたうえで、加藤が西生浦へ進入する日時を知らせた。しかし、この時点ですでに加藤軍は西生浦へ到着していた[31]。

金應瑞は要時羅の情報を権慄に報告し、権慄はこれを朝廷へ伝えた。朝廷は要時羅に都事の官職を与えたうえで、李舜臣に出撃を命じたが、李舜臣は敵の奸計に陥る危険があるとして出撃保留を表明した。この対応に対し、朝廷の大臣たちは李舜臣への弾劾を開始し、2月6日には三道水軍統制使からの罷免および逮捕命令が下された[31]。

1597年2月26日、李舜臣は宣祖の命により閑山島で逮捕され、漢城へ護送された。3月5日に到着した李舜臣は義禁府の獄に収監された。当時、宣祖が挙げた罪状は、「朝廷を欺き君主をないがしろにした罪、敵を討たずに逃して国家を危うくした罪、他人の功を奪い、また人を罪に陥れた罪」などであった[32]。

それぞれの内容は、李舜臣が釜山浦への進撃命令を拒否したこと、部下の報告を信じて結果的に虚偽の戦果報告を行ったこと、元均の功績を横取りしたとされたこと、さらに元均を誹謗したとされたことに関連している。なお、釜山の日本軍陣地への放火については、実際に行われたとされている[32]。

3月4日に漢城へ到着した李舜臣は、典獄署に収監され苛酷な拷問を受け、処刑の危機に陥ったが、判中枢府事・鄭琢が命懸けで上疏を提出したことで宣祖の心を動かし、4月1日に典獄署から釈放された[33]。

李舜臣は釈放当日に甥と息子に会い、2日には領議政・柳成龍と面会して話を交わした後、5日から12日まで故郷の牙山で親族や友人と会い、先祖の墓を参拝して過ごしていた。その最中、釈放の知らせを聞いて西海を渡って来ていた母が死去したとの報せを受けた[33]。

李舜臣は白衣従軍の命を受け、母の葬儀を十分に終えることもできないまま戦場へ出発した。『乱中日記』には、「母の霊前に別れを告げて号泣した。どうすればよいのか。天地の間に私のような境遇の者がどこにいるだろうか。早く死ぬに越したことはない」と記している[32]。

慶長の役

復職

1597年7月16日、三道水軍統制使に就任した元均が率いる朝鮮水軍は、漆川梁海戦において日本軍の奇襲を受けて壊滅した。朝鮮水軍は春元浦へ後退し、兵士の多くは上陸して離散、板屋船の大部分は焼失または日本軍に鹵獲され、大阪へ移送されたとされる。

李舜臣は権慄の幕下で白衣従軍中、漆川梁海戦において、元均率いる朝鮮水軍が、離脱した裵楔の12隻を除いて壊滅したとの報を受けた。かつて自らが拒否した釜山進撃の結果、懸念していた最悪の事態が現実となった[32]。

7月18日、事態収拾に苦慮した権慄は李舜臣に助言を求め、李舜臣は自ら沿海地方へ赴いて状況を確認したうえで対策を立てるべきだと述べ、直ちに9名の従者を率いて現地へ向かった[32]。

この事態を受け、朝鮮王朝は慶林君李命元および兵曹判書李恒福の建議に基づき[34]、李舜臣を再び三道水軍統制使に任命した。しかし再編時点で残存艦はわずか12隻であった。朝廷内部では水軍廃止論も提起されたが、李舜臣は「なお12隻の船が残っており、我が死なぬ限り敵に水軍を侮らせない」として抗戦の意志を示したと伝えられる。その後、戦力再編のため1597年8月29日)に陣を珍島の碧波津へ移した[35]。

鳴梁海戦

1597年9月16日、日本軍艦隊の接近情報を得た李舜臣は、13隻の戦船を率いて鳴梁海峡に出撃した。鳴梁海峡は「ウルドゥルモク」とも呼ばれ、幅約293mと狭く、潮流は最大約6.5m/sに達するなど急潮流が発生する海域であった[36]。

日本側の兵力については史料により差異があるが、戦闘参加艦はおよそ120~133隻、総数では最大で約330隻に達したとする記録もあり、少なくとも10倍以上の戦力差が存在したとされる[37]。

李舜臣は潮流条件を踏まえ、追加で合流した1隻を含む13隻の艦隊をもって右水営前海の臨下島方面へ布陣し、日本艦隊を誘導したとされる。この戦闘により日本側艦船に一定の損害が生じ、少なくとも30隻以上が撃破されたとする記録がある[38]。

その後、朝鮮水軍は戦略的に再編・移動を行い、同年10月8日には右水営を奪還したとされる[39]。

この戦いは鳴梁海戦として知られ、朝鮮水軍は慶長の役後期の戦局において重要な転機を作ったとされる。その後、日本側は明軍との講和を試みたが成立には至らなかった[40]。

折爾島海戦

李舜臣は鳴梁海戦後、高下島と古今島を拠点に軍備の再建を進め、海路通行帖の発行や塩田経営によって軍粮と軍資金を確保した[41]。1598年7月、陳璘率いる明水軍本隊が古今島に到着し、李舜臣はこれを歓待して連合体制を整えた[42]。その直後、藤堂高虎、加藤嘉明、九鬼嘉隆率いる約100隻・16,000名の日本水軍が古今島へ進撃し、連合水軍は錦堂島および折爾島周辺でこれを迎え撃つ態勢を整えた[43]。

1598年7月19日早朝、李舜臣率いる朝鮮水軍は折爾島周辺海域で日本水軍と交戦し、鶴翼陣と火砲戦によって日本船約50隻を撃沈した。宋汝悰は伏兵として日本船6隻を拿捕する戦功を挙げた。李舜臣は宣祖に対し、日本兵の首級70余を得た一方で、戦果のなかった陳璘の要求に応じて40余を分け与え、さらに李億祺にも5級を送ったと報告している[44]。

順天城の戦い

1598年9月20日から3日間、朝鮮・明連合艦隊は順天倭城を砲撃したが、日本軍は城内で防御戦を展開した。その後、明の遊撃将・王元周の100余隻と合流し、10月2日朝に総攻撃を開始した。4日まで激戦が続いたものの、陳璘の指揮の誤りにより39隻が干潟に座礁し、日本軍の攻撃を受けて大きな損害が発生した。李舜臣は戦船7隻を動員して救援を試みたが、干潟に閉じ込められた明軍を救出する手段はなかったとされる。水陸連合作戦は失敗に終わり、朝明連合艦隊は10月8日に古今島・徳洞基地へ帰還した[45]。

この戦闘において、李舜臣率いる朝鮮水軍は日本船30余隻を撃沈し、11隻を鹵獲、さらに日本軍3,000名を死傷させる戦果を挙げたが、陳璘および明軍の救援に当たる過程で130名が戦死した[46] 。

露梁海戦

豊臣秀吉の死後、日本軍に退却命令が出されると小西行長は明との間に停戦を成立させた後、海路を撤退しようとしたが、日本軍撤退の内情(秀吉の死)を知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出、海上封鎖を実施し小西らの退路を阻んだ。停戦後のこの明・朝鮮水軍の行動に、小西軍は順天城での足止めを余儀なくされた。この小西軍の窮状を知った島津義弘ら日本側の諸将は急遽水軍を編成して救援に送ることとなり、これに対し李舜臣および明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて東進し島津水軍を露梁海峡で迎え撃つこととなった。

戦闘全体としては、朝鮮・明連合水軍は艦船4隻を失った一方、日本水軍は200余隻が撃沈され、100余隻が拿捕され、日本水軍の残存艦隊は敗走した[47]。

最期

激しい戦闘が続く中、李舜臣は自ら日本軍に向けて矢を放っていたが、日本軍の銃弾に胸を撃たれ、船上に倒れた。このとき李舜臣の息子は号泣しようとし、兵たちは大いに動揺した。李文彧はそばでこれを制止したうえで、李舜臣の遺体を衣で覆い隠し、太鼓を打ち鳴らして進撃を続けたため、兵たちは李舜臣がまだ生きていると信じて士気を回復し、攻撃を継続した。最終的に日本軍は大敗し、人々はこれを「死せる李舜臣が生ける日本軍を打ち破った」と伝えた[48]。

遺言は「敵と対峙しているので、慎んで発喪するな」であったとされる[49]。

その訃報が伝わると、湖南一帯の人々は皆号泣し、老婆や子供に至るまで悲しみに沈み、泣かぬ者はいなかったとされる[48]。

戦死について

「流れ弾」について『韓国通史』では「露梁海上で日本軍の退路を塞いで殲滅しようとした李舜臣は不幸にも流れ弾に当たって戦死してしまった」とする[50]。 「追撃」については朝鮮側の史料である柳成龍『懲毖録』によるもので、李舜臣の死のことを「李舜臣は日本軍を大いに撃破し、これを追撃している最中に鉄砲の弾丸で戦死した」と記している[注釈 2]。

『明史』では「鄧子龍の救援に赴き、死亡した」とのみ記されている。日本側文献『征韓録』によれば、「小船で先出してきた鄧子龍が従卒200余兵とともに討ち取られるのを救援するために進出したところを、和兵に囲まれ船を乗っ取られた」とのみ記し、死に至る詳細については残されていない[53]。

なお、韓国では英雄化が過ぎるあまり、日本軍撤退後は自分が不要な存在となり、以前と同じく不当逮捕されて死罪とされることを見越して、自ら華々しい死に場所を求めたという説や、戦争を生き延びて隠遁生活を送って16年後に死亡したなどという説が唱えられることがある。自殺説の根拠として李敏叙(1633-1688)の『金忠壮公遺事』が挙げられることがあるが、これは当時の文芸表現を誤読したうえに解釈を付したものであり根拠のある説とは言えず、また隠遁説についてはまったく根拠のない仮説であって、長男の李薈(イ・フェ)が弔問客の玄健(ヒョン・ゴン)に礼状を送ったものが残っており隠遁説の反論となる[54]。

評価

朝鮮

李舜臣はその死後に最大級の勲功を与えられ、「忠武公(충무공)」と諡(おくりな)されたほか、1603年、宣祖は彼を宣武1等公臣[注釈 3]および德豊府院君に追尊し、その偉業を讃える「洗兵館」を統営に建立。1659年、孝宗の時代に韓国の南海に忠武公李舜臣の碑が建てられ、1688年、全羅南道海南郡に鳴梁大捷碑が建立された。1705年、忠清南道牙山市に祠堂が建てられ、粛宗が顕忠祠と命名。死後約200年経った1793年には、朝廷により正一品議政府領議政(首相職)を追尊された。

韓国

韓国で英雄となっている李舜臣(ソウルの李舜臣像)
1970年代の李舜臣の100ウォン銀コイン
李舜臣級駆逐艦

中国の上海で活動していた大韓民国臨時政府は日本を撃退した英雄として李舜臣を象徴化し、彼の伝記を『独立新聞』に載せるなど[注釈 4]盛んに喧伝して抗日の先駆者と見なすようになった。

肖像画が紙幣や硬貨に描かれたり、韓国ソウルの官庁街である世宗路には、銅像が建てられている。当初は世宗大王の銅像が設置される予定であったが、世宗路と太平路が開けており、南方(日本)からの気が強く流入してしまうため、それを制御する必要があるという風水地理学者の主張を根拠として建設されたとされる[55]。なお、他にも釜山龍頭山公園や木浦など、朝鮮半島南海岸に数多くの李舜臣の銅像が建てられている。

国際的なスポーツ大会(特にサッカー)でも彼の肖像画がしばしば使われる事があり、2013年7月28日に行われた東アジアカップ・日本-韓国戦でも、『歴史を忘れた民族に未来はない』という横断幕や安重根の肖像と共に掲げられた[56]。

2024年に韓国ギャラップが実施した「韓国人が尊敬する人物」調査で1位に選ばれた。2位はハングルを創製した世宗である[57]。

李在明大統領は2026年4月に忠武公誕生記念行事に出席し、「現政権は李舜臣将軍の精神を灯火とし、国民統合の強い力を原動力として国難克服のために全力を尽くす」と述べた[58]。

北朝鮮

第2級李舜臣勲章

北朝鮮においても李舜臣は、日本軍を撃退した英雄として顕彰されている。また金日成も、李舜臣についてその時代における偉大な人物であると評価したとされる[59]。

李舜臣の名は、北朝鮮の文学・芸術・政治・体育など多方面で用いられており、朝鮮戦争下の1950年には「李舜臣勲章」が制定され、朝鮮人民軍海軍の将官や指揮官に授与されたほか、テコンドーの型にもその名が取り入れられている。さらに1999年には、李舜臣関連資料に基づき亀甲船の1/70縮小模型が製作され、中央歴史博物館に展示されたとされる[59]。

また文学・芸術分野でも李舜臣は重要な題材となっており、1960年に国立劇場で創作された演劇「李舜臣将軍」や、李泰鎮による戯曲「李舜臣将軍」などが代表例として挙げられる[59]。

しかし、金日成の偶像化が進むにつれて、李舜臣は両班出身であり、封建支配階級の利益を擁護する封建国家のために戦った人物であるとして、祖国解放戦争(朝鮮戦争)期に社会主義のために戦った愛国者たちと同列に論じることはできないという評価が示されている[60]。

金正日は1992年に発表された著作の中で、国立劇場で上演された演劇『李舜臣将軍』について言及し、作品では壬辰祖国戦争期の海戦勝利が李舜臣個人によって達成されたかのように描かれていると述べている。その一方で、実際の戦勝は人民大衆が彼に従い、ともに祖国を守るために勇敢に戦った結果であり、そうした集団的な闘争がなければ海戦での勝利は成立しなかったとの見解を示している[59]。

日本

明治維新で征韓論が勢いを持つようになり、日本の大陸進出から朝鮮が日本統治期になる過程で、再び前時代が注目されるようになって、李舜臣は、日本人の文学者や研究者により再評価された[注釈 5]。

日本海軍においても戦史研究の大家と言われた佐藤鉄太郎は、李舜臣をホレーショ・ネルソンやミヒール・デ・ロイテル以上であり、装甲艦の創始者であることや、その他の運用面においても極めて高い評価を行っている[62][63]。

誤解

16世紀の亀甲船の絵画
亀甲船は昔からあった
しばしば「李舜臣は亀甲船の考案者であった」という説明[64]がされることがあるがこれは定説とは言えない。亀甲船の現地名である「亀船」に関する記述はすでに15世紀のものに見られる[65]。
李舜臣は亀甲船を改良し、本営・防踏鎮・順天府の船所で3隻を建造し、その後、陣営を閑山島へ移した後にさらに2隻を建造して、計5隻を保有したとされる[66]。
東郷平八郎の発言
韓国や日本では、東郷平八郎が「真に軍神の名に値する提督があるとすれば、ネルソンではなく李舜臣」「私はネルソン提督とは比較されても構わないが、とても李舜臣提督には及ばない」などと述べたという言説がある。ただし、実際に東郷がこのような発言を行ったという記録は残っておらず、伝聞ばかりで状況は不明確である[67]。
この言説は戦前期からすでに存在しており、大韓民国臨時政府の第二代大統領を務めた朴殷植は、1921年の『李舜臣伝』において「日本の海軍大将東郷平八郎は、李舜臣に似たいと願ったが、ネルソンに似たいとは願わなかった」といった記述を行っている[67]。
ただ明らかになっているかぎり、李舜臣がネルソンより優れていると評した日本海軍の人物は東郷ではなく、後に海軍中将を務めた佐藤鉄太郎である。佐藤は1908年の著書『帝国国防史論』において、「李舜臣は実に蓋世の海将である」「比肩できる者といえば蘭将『デロイテル』以上であると謂はなければならぬ」「『ネルソン』の如きは其の人格に於て到底比肩することが出来ぬ」と記している[63][62]。
また、1935年には海軍大将で後に第1次近衛内閣の内務大臣を務めた末次信正が、「李舜臣はネルソンよりも優れている」と演説したという情報が朝鮮の雑誌等に掲載された。ただし、実際には末次は「朝鮮では当時の名提督李舜臣の史跡を非常に誇りにしている」と述べただけであり、評価については触れていない[67]。「東郷発言」を調査したソク・ヨンダルとキム・ジュンべは、これらの言説が混じり合ったものが、東郷の発言とされるものにつながったのではないかとしている[62]。
1955年3月31日の『朝鮮日報』において「桂太郎首相から『東郷元帥の偉勲は朝鮮の李舜臣将軍と英国のネルソン提督に比するに値する』という要旨の祝辞があった。東郷は『私をネルソン提督に比することは辞退しようとは思わないが、李舜臣将軍に比することは到底、堪えられない』と言った」という記述が掲載された。執筆者は李舜臣の顕彰団体「忠武公記念事業会」の理事長であり、これ以降この言説は大きく韓国で広まっていった[62]。
一方、詩人の金素雲は、元海軍少佐で作家の川田功から聞いた話として、戦捷祝賀会で東郷が「ネルソンはいざ知らず、李舜臣になぞらえたのは当りませぬ。不肖東郷如きは李舜臣の足元にも遠く及ぶ者ではありませぬ」と語ったというエピソードを紹介している[68]。また東郷と知己であったという韓国人事業家李英介(朝鮮語版)からの伝聞だという話もある[注釈 6]。
日本海軍が海軍権益拡大(軍艦建造と組織の拡大)のため李舜臣を引き合いに出して朝鮮出兵の敗因として宣伝したり[70]、内鮮融和のプロパガンダ[注釈 7]、戦後独立した韓国・北朝鮮で抗日のシンボルとして利用された[72]ことにも留意する必要がある。

著書

李舜臣を題材とした作品

小説
映画
テレビドラマ

関連書籍

史料
伝記
その他
  • 水野俊平「第2部 検証8・東郷平八郎は李舜臣に日本海海戦の戦勝を祈った」『笑日韓論』フォレスト出版、2014年。ISBN 9784894519527。

脚注

関連項目

外部リンク

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